人生はゲームか?
「人はそれぞれのゲームを生きているのだろう」と考えると、気が楽になる。
「それはしょせんゲームだ」と解釈することで、人生という重たいものを軽くし、そこに詰まっている苦しみを解毒する。
だから、苦しみから逃げるために、「人はそれぞれのゲームを生きているのだろう」と考えたくなる。
もちろん、人生をむやみに重たく考えたがる人はうっとうしい。
人生なんて、そんなごたいそうなもんじゃない。
ただ、逆に、人生をむやみに「無意味化」しようとするのもまた、どこかウソっぽい感じがする。
なぜなら、ゲームの内側にいる人間にとっては、ゲームはゲームではあり得ないからだ。
自分だけは、ゲームの外側に立って、ゲームを眺めているつもりでも、実際には、つもりになっているだけだろう。
おそらくは、「人生はゲームだ」と言っている本人ですら、それを意識の片隅で感じているだろう。
そして、だからこそ、「人生はゲームなんだ」と言わないではいられない。
もちろん、論理や理性は、ゲームから出られる。
だから、人生はゲームだと「考える」ことができる。
でも、情動や直感や無意識は、ゲームから出られない。
だから、どんなに人生はゲームだと「考え」ようとしても、人生はゲームじゃないと「感じ」てしまう。
ゲームの中の存在にとっては、ゲームこそがリアルで、ゲームを「単なる」ゲームだと感じることはできない。
ゲームをゲームとしてプレイすることができるのは、われわれがゲームの登場人物そのものではなく、ゲームの外にいて、登場人物を操っているからだ。
しかし、われわれが、ゲームの登場人物そのものになったら、話は別だ。
ゲームの中で、その登場人物がペンチで唇や鼻をむしり取られて、絶叫し、涙を流し、失禁するとき、登場人物にとっては、それは、ゲームではあり得ない。
どんなにそれがゲームだと言い張ったところで、「これはゲームなんだぁ!!!」という絶叫が虚しくこだまするだけ。
頭では、「これはゲームだ」と思うことができるが、フィーリングがそれを裏切るのだ。感覚は、それがゲームではなく、リアルだと告げるのだ。
そして、それは、暴力に限らない。自分が好きな女の子を寝取られたとき、「これはゲームに過ぎないから」と言ってもむなしいばかりだ。
なぜそうなるのかというと、われわれの情動や直感や無意識は、すべて、教育や文化のような、後天的なソフトウェアによって作られているわけではなく、無制限に書き換え可能なものではないからだ。
情動や直感や無意識を生み出しているのは、億年もの時をかけてチューニングされつづけてきた、我々ニューロン、神経伝達物質、ホルモン、そして、細胞レベルにまで及ぶとてつもなく高度で複雑な分子的構造体だ。それは、我々が考えているほど、我々の自由になるものではない。
情動、直感、無意識、フィーリングはそういったものによって強く支配されている。
そして、われわれは、重たくてやっかいな人生から逃れるために、この支配を打ち破ろうとする。
つまり、「人生は、ゲームに過ぎない」と考えようとする。
でも、「この支配」とはなんなのか?
「なに」がわれわれを支配しているのか?
実は、支配しているものの本体こそが、「自分」なのではないだろうか?
われわれは、重たくてやっかいな人生から逃げようとして、自分から逃げてしまっているのではないだろうか?
もちろん、何事も本能のままに生きるべきだということにはならない。
それは、自分を形成する重大なパーツではあるが、それだけが自分のすべてではないから。
しかし、自分の中からせり上がってくる感情が存在しないのだと思いこもうとすることもまた、自己欺瞞になる。
だから、俯瞰したことを言う者には注意した方がいい。
メタ視していい気になっている者もあまり信用しないほうがいい。
頭では俯瞰できても、、理屈ではメタ視できても、自分を根本的に規定する情動やフィーリングは、常にベタでしかあり得ないのだから。
ゲームの内側にいる者にとって、ゲームはゲームではあり得ないのだから。
リアルな人生は、どこまでいっても、リアルでしかあり得ないのだから。