笑いのメカニズムについて

まず最初に、「面白さ」とは何かということについては、作家の鳥山仁さんという方の書いた、純粋娯楽創作理論 第一章・面白さの基礎原理

という創作術の本の中で「予想外で、かつ他人事であること」と定義されているが、笑いとは何かということについては、
(自分にとって)脈絡のないことにリアリティーを感じる他人事
と定義できると思う。


笑いを考えるには、人間が笑う、という行為について考えなければならない。
お笑いのテクニックでよく言われる、「天丼は三回まで」ということも、結局は脈絡を得た(そして飽きた)ということで片がつく。「権威の失墜」も「緊張と緩和」も、今まで根付いていなかった脈絡のことだ。権威があからさまに失墜するのは珍しいし、緊張状態が急に緩和することも珍しいから、その脈絡が日常的にあるものではないから、その場面が作り出されてしばらくはやっぱりおもしろいのだが、そればっかやられたらお腹いっぱいで、お腹いっぱいになったら「権威の失墜だな今のは」とかメタ発言が生まれて、その時にはもう笑っていない。脈絡を得たらもう笑えない。
ボケは「わからないこと」の提示で、ツッコミは「わからないことだ、ということをわからせること」なわけで、わからないことだと知ったら、それは厳密に言えば「わからないこと」ではなく、その脈絡を得て整理した時点で笑う対象ではない。未知であることは、つまり、脳にとって未知であることだ。

我々が普段使っている日常会話には脈絡がある。脈絡とは、ほとんど我々の行動指針で、生きていく上で社会の「常識」とされるものだ。
そして、この脈絡を外すと、けっこう意図的に笑いを取ることができる。「笑いには制約があったほうがいい」みたいなことを松本人志が言うのも、「脈絡をなくす」ということの重要性とそのカラクリについて、彼はかなりよくわかっているからだと思う。常識とされている脈絡自体を知らなければ、脈絡を外すことも出来ない。


そして、その松本人志の『VISUALBUM』というコントビデオの中にある、「マイクロフィルム」は、かなりの脈絡外しを恐らくは意図的に行っている。


松本人志コント 「マイクロフィルム」




ボス率いるチャイニーズマフィアが一人の男にマイクロフィルムの場所を吐かせようとしたら殴るたびにケツから色んな物が出てきてこいつは何でも飲み込むビックリ人間ですわーということに気付いてマイクロフィルムも飲み込んでいるに違いないとどんどん殴ってどんどん出てくる、という話。


何かがケツから出てくることには現実の脈絡はこれっぽっちもないが、映像としては現実の様態をしている。それは、「ケツから物が出てくる現実」が表現されている。
しかし、これではただのコントに過ぎない。この次元にとどまってはそれほどおもしろいコントにはならない。なぜなら、イメージのつながりが単純だから。

マイクロフィルム」では、そこからさらに、マイクロフィルムそっちのけで何が出るか楽しみになってくる、という福引のような状況に発展していく。途中では、「64の本体出せや」と東野が叫びながら殴る(もちろん、「ケツから物がでてくる現実」とはいえ他は現実のルールで動いているので、マイクロフィルムそっちのけで64を求めることをボスから注意される)。

その福引状態の中で、いわゆるハズレが出前一丁に設定される。
「ケツから飛び出す・出前一丁・ハズレ」という脈絡の無い言葉を、コントを見ながらつなげるわけだ。

これらの言葉には、どんな突飛な人生を送っていても、現実に生きている限り相当の距離があるから、誰が見てもおもしろい。

そしてさらに、出前一丁=ハズレの図式を使い、そのハズレが「続く」ことで、現実の脈絡のない出来事そのものに、現実らしさを補強していく。
「ケツから出前一丁が出てくる脈絡の無さが、そのまま脈絡になってくる」ということだ。ケツから物が出てくるという決定的な脈絡の無さを、現実のルールで補強する。現実の脈絡がなくても現実の様態をしている、というリアリティー。こういうコントを見ている時の頭の中は、ひどい混線状態のはずだと思う。
そしてこの混線状態を、いかに複雑に起こせるかというのが、お笑いの地肩の強さに結びつくものだと私は考えている。


一応、念のために少し書いておくと、知らないことなら何でも笑えるのか、知らないことでも笑えないことがあるんじゃないかということについては、他人事であるかそうでないか、というのが重要な要素だと思う。

例えば実際に自分がコントの登場人物の立場になったことを考えて、キャシー塚本という人間と自分はどう関わっているか、ということで、テレビごしなんかじゃなくて、自分が今田のポジションにいたら、ほとんどの人が笑い事には出来ないと思う(もちろん、コントの演者として、という意味ではなく、実際の登場人物として)。

もう一つ、極端な例で、目の前で人が死ぬというのを初めて体験したところで笑えないのは、死について、その原因のケガについて、血について、病気について、知っているからだ。すでに知っていることは他人事には出来ない。知らないことの現実感ではなく、怖いことの現実感が現れると、当たり前の話、怖いのだ。それを創作でやるのがホラー映画だ。だから、血が噴出して倒れたら笑えないが、血が噴出してピンピンしてたら笑えるというわけ。それが、ホラー映画とコントの違いになる。

そう考えると、「面白い人」というのは、「面白くないことを絶対にしない人」と言えるのかもしれない。その安心感というか、信頼感が、周りが笑いやすい空気を作っている気がする。


というわけで、長くなってきたのでそろそろ無理矢理まとめに入ると、おもしろいものは、現実というかリアリティーに凄く関わっているということだ。現実という改めて提出されるとつまらなすぎるものと次元のややずれた、でもつながっている場所で、凄い表現者はウロウロする。現実が踏まえられなければおもしろくないことを知っている。人間は現実に生き、現実の感覚でものを見るのだから。