良いものは良いと言いたい

評論家は、どれだけその作品を褒めちぎって、その作品の魅力を上手く言語化して、多くの人に伝えることに成功しても、自分が作った訳じゃないから見返りはほとんどないし、それどころかお前は何も作っていないクセにエラそうにしやがってと軽く扱われて見下されることもある。
だから、評論家って、基本的に貧乏くじを引く役割を担っているのだと思う。誠実な評論家であればあるほど、そうなる。


でも、そういう評論家がいないと、表に出てこない作品もかなり多い。

 

何故なら、作品を作るクリエイターの人たちの多くは、
「私は、ただ作りたいからこれを作った」
と言って、作品の意味や解釈を他の人に委ねているし、そして、そういう姿勢こそがクリエイターとしてのあるべき姿という風潮があるから。

なぜ、相手の解釈に委ねた姿勢こそクリエイターとしてのあるべき姿だという風潮があるかというと、その方が敷居が低くて、より多くの人に開かれている感じがするから。
しかし実際には、とくに現代美術に顕著だが、
「その分野の歴史の文脈を知っている」
という前提の上での自由な解釈でしかないので、本当のところは、内輪の中で盛り上がっているだけで、全然開かれた表現でもなんでもない。

 

たとえば、id:kotoriko氏の、「コトリコトリコ」は、僕も未だにテキストで保存して持っている位お気に入りの作品だけれど、それでも分裂勘違い君劇場で紹介されていなければ、きっと僕が読む機会はなかっただろうし、コトリコトリコを読む機会に恵まれた人の中でも、「は?何これ意味わからん」って人はきっとたくさんいたと思う。

 

「解釈は自由です。ぼくの作りたいものを感性だけで作りました」
とか言っていても、その先にあるのは、分かっている奴だけに届くアートという状況でしかないし、そして、その状況を変えない限り、「美術とか文学やっている奴らは話の通じない馬鹿な奴らだ」という、世の中から浮世離れした存在として扱われている風潮も一向に変わらないと思う。能とかは最早そうなって久しいし。


だから、自分が良いと思ったものは良いと言いたいし、多くの人に届くためには、明晰で論理的な言葉を使うことはとても重要だと思う。