レオパレスに三か月住んでみて良かったところを紹介する。
レオパレスは、最近また建築法違反物件が発覚したことで、株価が下がったりと悪評がついていますけど、12月から引っ越したぼく個人は、今のところ、とても快適に過ごしています。
たまたま違法建築物件ではなかったというのはあるけれど、ぶっちゃけ個人的にはそこは大した問題ではありません。では、その理由を書いていきます。
レオパレスの悪評でよく言われているのは、
①壁が薄い
②レオネットが遅い
この二つだと思いますが、どちらも僕の場合は毎日を過ごす上でむしろメリットに働いています。
まず、①ですが、これは確かにそうなんですけど、もともと壁が薄い物件に住んでいるという意識から、ほかの住人の方々は他のアパートの人たちよりも部屋の騒音に気を付けている印象で、結果的にとても平穏です。
そして、②に関しては、部屋を決めるうえで事前にネットで調べて吟味するようなヘビーネットユーザーは、悪名高いレオパレスを選ばないので、もしかしたら今のぼくの部屋は特殊例かもしれませんが、平均常時下り70~90Mbps、上り95Mbps以上の速度が出ており、まったく問題なくネットを使えています。どうやら、5GHz帯を使っているのはこの物件でぼくだけのようです。これで工事費なしの月2,268円の利用料はとても安くてありがたい。
サービスラインナップ|LEONET|レオパレス21専用サービス
そういうわけで、日本は地震が多いからどうしても違法建築には敏感になりがちですけど、いま悪評広まっているレオパレスは部屋も空いていて家賃も下がっているところが多いので、逆におススメ物件だと思います。
みなさんも、ぜひ快適なレオパレスライフを!!
「カメラを止めるな!」を観た感想(ネタバレあり注意)
昨夜のレイトショーで観てきた。
全体的な印象としては「面白かった」し、評判が良いのも納得だけれど、エンタメ作品の物語として、「メタフィクション」的な仕組みと、「最初に謎を提示せずに伏線を張る」という展開をしたところの2つが気になった。
それは一体どういうことかというと、まず、「メタフィクション」的な仕組みの問題から説明していく。
そもそも、いわゆる王道と呼ばれる物語には、
「1つの不条理が次の不条理を呼び寄せ、その不条理が更に次を呼び寄せる、、、」
といった共通の形式がある。
そして、これとは逆の1つの作品内に複数の不条理がありながら、これが連続しない場合は自動的に「メタフィクション」となる。つまり、Aという不条理が提示されている間に、それとは全く無関係なBという不条理が提示されることによって、作品が複層的な構造を持つようになる。
この手法は、短編向きの不条理しか作れない、あるいは長編に不慣れな作家が、どうにかして長編物語を作ろうとして、尺を伸ばすために短い射程しかない不条理を詰め込んだ結果、相互の連続性を失い、その結果として自動的に「メタフィクション」になってしまうケースがよくあり、今回の「カメラを止めるな!」もそれに当てはまるような気がする。
言うまでもなく技術的に高度なのは不条理の連続性を作り出すことで、これを「繋ぎ」と呼ぶ。
「繋ぎ」の技術があれば、わざわざ作品をメタにする必要はないし、それ以前に長尺に適した不条理を事前に選択しておけば、こうした問題は発生しない。
次に「最初に謎を提示せずに伏線を張る」問題についてだが、王道ミステリでは、よく
「前振りとして、欠損=謎を提示することで、観客の興味を惹き、その後で答えを示す」
ことでシーン、あるいはシークエンスを繋ぐ方法が使われており、この手法のメリットは、
「謎を提示することで、視聴者の興味を惹きつける」
事にある。
どんな娯楽でもそうだけど、オープニングで視聴者の興味を惹くことは重要だから、インパクトのあるシーンをトップに持ってくる方法と並んで、謎の提示は好まれる傾向にある。
じゃあ、このタイプの「繋ぎ」にはどんなデメリットがあるのか?というと、すぐに思いつくのは、これもやはり「長編に不向き」だということ。つまり、シーン、あるいは連続性を繋ぐのに、全て欠損情報=謎=伏線を提示していたら、長編を書いていく際に膨大な伏線を張っていく必要性が出てきてしまう。
だからこそ、本作の「カメラを止めるな!」では、前述した「メタフィクション」的な手法を取り入れたんだろうということはある程度は邪推できる。
しかし、謎解きというのは、最初に謎が提示されなければ、受容者はそれを謎だと認識できない。にも関わらず、短編志向のある作家は、最後に出した情報で「大どんでん返し」をしたがる傾向が如実にあるので、情報を隠したがる。すると、高確率で「謎を提示する」という情報の配置方法を選択しない。
だから、重要な前振り=「謎」としての機能がされていない。その状態で「実はこんなことがありました!」と後から説明をされても、そこまでの驚きは生まれない。
そして、これはあくまで「理想論」だが、そもそも、ストーリーが面白ければ、わざわざ欠損情報を視聴者に提示して、そこで興味を惹くという手法を使う必要はないと思う。
完璧な創作物はこの世に存在しないので、どんな作品でもケチをつけようと思えば可能だし、また評価に個人的な嗜好が入るのは避けられないけど、
①ストーリー・テリング(客観視しやすい)
②状況描写のテクニック(情報量を吟味できる)
この二つを意識するのは、作品のクオリティを保つためにも必要な気がする。
そして、ここからはもう完全なただの私見になるけれど、そもそも自分は、今回の「カメラを止めるな!」を観に行くにあたって、なるべく事前の前情報はシャットアウトして観に行ったのだが、それでも、低予算で評判の良い映画ということは耳に入っていたので、その段階で、
「これはかなり高い確率でフェイクドキュメンタリーかメタフィクションもの、あるいはその両方だろうなー」
と予測していたので、実際に鑑賞してみると、やっぱりそうだったかーという感想だったというのが正直なところだった。
これは、少ない予算でヒット作を出そうとすると、もしかしたら使わざるを得ない手法なのかもしれないけれど、まあ、そういった事情があり、物語において最初の前振りにあたる「フェイクドキュメンタリー」の部分で、なんかおかしいなと感じたところが何度かあった段階で、
「これはメタ的な展開になる可能性があるかも」
と前振りの仕掛けを何となく察してしまい、けっきょく物語にあまりハマれなかったという結果になってしまった。
まあ、そんなぼくみたいな人は少数派だからこそ、ここまで評判が良いんでしょうけど笑
人生はゲームか?
「人はそれぞれのゲームを生きているのだろう」と考えると、気が楽になる。
「それはしょせんゲームだ」と解釈することで、人生という重たいものを軽くし、そこに詰まっている苦しみを解毒する。
だから、苦しみから逃げるために、「人はそれぞれのゲームを生きているのだろう」と考えたくなる。
もちろん、人生をむやみに重たく考えたがる人はうっとうしい。
人生なんて、そんなごたいそうなもんじゃない。
ただ、逆に、人生をむやみに「無意味化」しようとするのもまた、どこかウソっぽい感じがする。
なぜなら、ゲームの内側にいる人間にとっては、ゲームはゲームではあり得ないからだ。
自分だけは、ゲームの外側に立って、ゲームを眺めているつもりでも、実際には、つもりになっているだけだろう。
おそらくは、「人生はゲームだ」と言っている本人ですら、それを意識の片隅で感じているだろう。
そして、だからこそ、「人生はゲームなんだ」と言わないではいられない。
もちろん、論理や理性は、ゲームから出られる。
だから、人生はゲームだと「考える」ことができる。
でも、情動や直感や無意識は、ゲームから出られない。
だから、どんなに人生はゲームだと「考え」ようとしても、人生はゲームじゃないと「感じ」てしまう。
ゲームの中の存在にとっては、ゲームこそがリアルで、ゲームを「単なる」ゲームだと感じることはできない。
ゲームをゲームとしてプレイすることができるのは、われわれがゲームの登場人物そのものではなく、ゲームの外にいて、登場人物を操っているからだ。
しかし、われわれが、ゲームの登場人物そのものになったら、話は別だ。
ゲームの中で、その登場人物がペンチで唇や鼻をむしり取られて、絶叫し、涙を流し、失禁するとき、登場人物にとっては、それは、ゲームではあり得ない。
どんなにそれがゲームだと言い張ったところで、「これはゲームなんだぁ!!!」という絶叫が虚しくこだまするだけ。
頭では、「これはゲームだ」と思うことができるが、フィーリングがそれを裏切るのだ。感覚は、それがゲームではなく、リアルだと告げるのだ。
そして、それは、暴力に限らない。自分が好きな女の子を寝取られたとき、「これはゲームに過ぎないから」と言ってもむなしいばかりだ。
なぜそうなるのかというと、われわれの情動や直感や無意識は、すべて、教育や文化のような、後天的なソフトウェアによって作られているわけではなく、無制限に書き換え可能なものではないからだ。
情動や直感や無意識を生み出しているのは、億年もの時をかけてチューニングされつづけてきた、我々ニューロン、神経伝達物質、ホルモン、そして、細胞レベルにまで及ぶとてつもなく高度で複雑な分子的構造体だ。それは、我々が考えているほど、我々の自由になるものではない。
情動、直感、無意識、フィーリングはそういったものによって強く支配されている。
そして、われわれは、重たくてやっかいな人生から逃れるために、この支配を打ち破ろうとする。
つまり、「人生は、ゲームに過ぎない」と考えようとする。
でも、「この支配」とはなんなのか?
「なに」がわれわれを支配しているのか?
実は、支配しているものの本体こそが、「自分」なのではないだろうか?
われわれは、重たくてやっかいな人生から逃げようとして、自分から逃げてしまっているのではないだろうか?
もちろん、何事も本能のままに生きるべきだということにはならない。
それは、自分を形成する重大なパーツではあるが、それだけが自分のすべてではないから。
しかし、自分の中からせり上がってくる感情が存在しないのだと思いこもうとすることもまた、自己欺瞞になる。
だから、俯瞰したことを言う者には注意した方がいい。
メタ視していい気になっている者もあまり信用しないほうがいい。
頭では俯瞰できても、、理屈ではメタ視できても、自分を根本的に規定する情動やフィーリングは、常にベタでしかあり得ないのだから。
ゲームの内側にいる者にとって、ゲームはゲームではあり得ないのだから。
リアルな人生は、どこまでいっても、リアルでしかあり得ないのだから。
「他人を見下している」とよく言われる件について
ぼくは、よく「他人を見下している」と指摘されることがある。
たしかに、「そう言われたら見下しているかもなー」と思わないでもないけれど、しかし、ぼくは、下水の泥の中で蠢く単細胞生物たちは、侮れないと思ったりする気分の時も、ある。もしかしたら、スゴイ奴らなんじゃないかと無意識のうちに警戒している。油断ならないと思っている。見下して侮った瞬間、やられるんじゃないか、という不安が、意識のどこかにある。もしかしたら、いつか僕を救ってくれる白馬の騎士になるかもしれないし、バカにしたり見下したりなんてありえないな、とか、ぼーっと考えていたりすることもよくある。それは、単細胞生物だけでなく、人間を含めたあらゆる生き物、いや、無生物を含めた森羅万象の何についても、そう思うことがよくある。本気でそう思うことがよくある。どんなによく理解した気になったときも、警戒だけは解かないでいる。どんな完璧な理解も、誤解である可能性が常にあるから。
一方で、IQ200でスポーツ万能容姿端麗で15カ国語を話せて、図書館の本をまるごと全部読破し、歴史を動かすような偉業を成し遂げ、大勢の人に支持されるカリスマがもしいたとしても、「もしかしたら、そのうち、IQ100000000ぐらいの宇宙人が地球にやってきて、その宇宙人から見たら、そのカリスマと常人の差なんて、誤差になっちゃうかもなー。だって、宇宙的な時間の流れからすると、1億年なんて、誤差なわけで、一億年後の人類なんて、遺伝子操作して量子コンピュータを脳に埋め込んで爆発的な知性を持つというような貧困な想像力ではとても想像しきれない超存在になってるだろうし。その宇宙人の文明と人類文明に一億年の差がある可能性だって、十分あり得るし。宇宙に広がる何千億個もの恒星系のうち、文明が生まれたのがこの太陽系以外は皆無、なんて、その方がよっぽど確率的に低いかもしらんし。。。」とかも、漠然と、意識の片隅で思うことがよくある。
でも、もちろん、価値判断はその都度するし、意志決定もその都度する。そうしないと、生活も仕事も前に進まないから。価値のあるものと無いものの区別がつかないと、行動の優先順位が決まらない。生活や仕事の方針が立たない。戦略が立たず、計画もできず、場当たり的に行動するしか無くなる。何もかもが不確かだからこそ、意志決定というものが必要なのだと思っている。何が価値で何が無価値かを、その都度決定し続けなければいけないのだと思っている。不確定性が一切無ければ、意志決定も価値判断も、そもそもいらない。そして、価値判断とは、価値のあるものを称揚し、価値のないことを見下すことに他ならないのじゃないかとも思う。
あと、謙遜の欺瞞を嘲笑したくなることもある。
昨日も、橋本治という人の本を立ち読みしたとき思ったのだけど、彼のように、明らかに常人より優れている人が、「ぼくのようなつまらない者が」とか「ぼくのような凡人が」って言ったり書いたりしているのを見て、「ハイハイ、こんなのどう見てもウソです。インチキです。読者の嫉妬や反感をかわすためだけにそれを書いていて、単なるいやらしい大人の処世術です。でも、そんなことは世間のお約束なので、そんなことを指摘したくなる僕はただのガキだから、ぼくは黙るしかないんだけど、やっぱりそれはムカつくし嫌だな。」って心の中で独り言を言っている自分がいる。
実際、ぼくは、損だと分かっていて、その謙遜という処世術をあえてしないという、ガキっぽいことをしたくなることがあるのは確か。それもかなり頻繁に。
あと、それをやり出すと、文章に勢いが無くなってしまうんじゃないか、という不安もある。
あと、誰だって、自分にとって、興味のあるものと興味のないものがあるのは、当たり前でしょ?好きなものと嫌いなものがあるのは、当たり前でしょ?そして、人はだれしも、自分の興味のないもの、嫌いなものは価値がない、と無意識に感じちゃっている。価値がないと無意識に感じるということは、それは、無意識に見下している態度なんですよ。第一、価値がない、無駄だ、と思われたとき、思われた人は、当然不快になる。不快で当たり前。でも、同時に、何かに価値がない、と思うのも、当然で、当たり前だでしょう?だから、見下すことは、ごく自然な行為なんじゃないかとも思う。
ただ、問題は、その、見下した態度を、表に出さないのが、礼儀というもので、その礼儀がなっていないと言われれば、その通りなんだけど、それって、電子メールで、3行で伝わる用件を書くのに、「桜の季節もすぎ、ますます暖かくなっていく今日この頃でございますが、、、」などとどーでもいい文章から始めるのが、不快なのと同じで、「礼儀は良いから、さっさと中身を言え!!!」って言いたくなることもあるんでしょう、礼儀が混ぜ込んである文章って。もちろん、礼儀がないと、不快だ、という人が出てくるのも当然。どっちもいて当たり前。
というか、ぼくは、傲慢で偉そうな物言い自体に対しては、反感を持たないタイプの人間なので、その辺の感覚が、よく分かっていないという可能性もある。僕は嫉妬を持たないのか?そんなことはないと思うんだけど、偉そうにされて反感を持つことって、あまりない。偉そうにされてむかつくときって、どうみても中身が伴ってません、って感じの時。偉そうにすることそれ自体じゃなくって、中身の価値を粉飾決済していることが気に入らない。
いや、でも違うな。ぼくが全然価値を感じない分野において、すごく自信を持って偉そうにしゃべる人も、別に不快ではないし。それに価値を感じているんなら、その価値に満ちた自分を偉いと思うのは、自然なんじゃないか?って思いますね。まあ、傲慢不感症なのかもしれない。いや、意外にそういう人は多いんじゃないか?
。。。。なんか、どこまで言っても、結論めいたことは出てきそうにないので、この辺でやめときます。
要するに、僕は僕という人間がどういう人間かよく理解できていないので、僕についてうまく語ることが出来ないわけですね。というか、自分で自分を分かった気になっている人間の方がもしかしたらインチキかも知れないという可能性もある。いや、単に僕が未熟なだけという可能性もある。可能性がありすぎて、それはよくわからない。あらゆることは、よく分からない。だから、ぼくたちは、ただただ、価値判断し、意志決定し、行動し、結果をだし、人生を味わう。しかし、そういう態度は、間違っているかも知れない。いや、それ以外の何かを求めるのは、そもそも、地に足がついていないのかも知れない。僕のような普通の生活者にとっては。よく分からない。
科学とは
私はその生い立ちの人工的な点において戦闘アンドロイドとして作られた君たちと違いはない。しかし、そのものが自由意志を持っているか、自動機械かは………生まれや体のつくりではなく…どう生きたかにかかっているのです!
「私」の存在と、「人間」の存在の関係
ドキドキ文芸部をプレイした(ネタバレなし)
「ドキドキ文芸部」っていうアメリカ人が作ったフリーのギャルゲが話題になっていたのでプレイしてみた。
http://ddlc.moe
http://store.steampowered.com/app/698780/agecheck
当然、アメリカの人が作ったゲームだから英語なんだけど、有志の方たちによる日本語パッチもある。
http://steamcommunity.com/sharedfiles/filedetails/?id=129...
で、プレイしてみた感想だけど、日本のギャルゲをすごく研究していて、無料なのにとてもよく出来ているなー、といった感じ。
ぼくはギャルゲ自体は君望とAIRとひぐらしと沙耶の唄とシュタゲくらいしかやったことがないけれど、そのくらいの頃のプレイしていた記憶を思い出して懐かしい気持ちになる。
個人的に、ギャルゲには良いところと悪いところがあると思っている。良いところは革新的で、悪いところは娯楽性がない。
実際、2000年代前半くらいに話題になっていたようなギャルゲたちは、あらゆる物語表現の最先端を行っていたと思う。
ただ、やっぱりエッジが効きすぎてるというか、あまりにも容赦がないというか、とにかく原液そのままって感じで濃すぎるので、基本的に娯楽性を意識して作られていない。
だから、ギャルゲは娯楽ではなく、文学とか芸術とかの領域なんだろうなーと思う。そういうのが好きな人にとってはめちゃくちゃハマっちゃうゲーム。
じゃあ、ぼく自身はというと、ギャルゲをプレイしているとある種のカルト性を感じるので、あんまりハマれないかなあといったところ。あと、レイプファンタジー的な側面もやっぱりあるだろうと感じてしまうので、正直そこも生理的に受け付けない。
でもって、ドキドキ文芸部の話に戻ると、その日本のギャルゲの良いところも悪いところもそのままキチンと引き継いでいて、そしてそれが海外の人にもウケたことが証明された。時代を経て、2000年代的ギャルゲが、日本以外でも原液そのままで海を越えて評価する人たちが一定数いるという状況が現象として面白いなあと思う。もう一つの海外製のフリーエロゲのかたわ少女も、プレイしていないけどあらすじを読む限りではたぶん似たようなものだと思う。(かたわ少女の方はプレイする予定はない)
ひょっとしたら、宗教が日常に入っている海外の人たちのほうが、ギャルゲの超越性みたいなものに共鳴して、心の琴線に触れやすいのかもしれない。
ただ、本音を言うと、娯楽性と芸術性の両立を期待していたりもしてたんだけど。
あ、あと最後に、ネコぱらってエロゲも海外で人気みたいだけど、あらすじをWikipediaで確認する限り本当にただのエロゲって感じだし、今回ぼくが書いた趣旨とはズレるので対象には含んでいません。。(ちなみに未プレイ)