「他人を見下している」とよく言われる件について

 ぼくは、よく「他人を見下している」と指摘されることがある。

たしかに、「そう言われたら見下しているかもなー」と思わないでもないけれど、しかし、ぼくは、下水の泥の中で蠢く単細胞生物たちは、侮れないと思ったりする気分の時も、ある。もしかしたら、スゴイ奴らなんじゃないかと無意識のうちに警戒している。油断ならないと思っている。見下して侮った瞬間、やられるんじゃないか、という不安が、意識のどこかにある。もしかしたら、いつか僕を救ってくれる白馬の騎士になるかもしれないし、バカにしたり見下したりなんてありえないな、とか、ぼーっと考えていたりすることもよくある。それは、単細胞生物だけでなく、人間を含めたあらゆる生き物、いや、無生物を含めた森羅万象の何についても、そう思うことがよくある。本気でそう思うことがよくある。どんなによく理解した気になったときも、警戒だけは解かないでいる。どんな完璧な理解も、誤解である可能性が常にあるから。

 

一方で、IQ200でスポーツ万能容姿端麗で15カ国語を話せて、図書館の本をまるごと全部読破し、歴史を動かすような偉業を成し遂げ、大勢の人に支持されるカリスマがもしいたとしても、「もしかしたら、そのうち、IQ100000000ぐらいの宇宙人が地球にやってきて、その宇宙人から見たら、そのカリスマと常人の差なんて、誤差になっちゃうかもなー。だって、宇宙的な時間の流れからすると、1億年なんて、誤差なわけで、一億年後の人類なんて、遺伝子操作して量子コンピュータを脳に埋め込んで爆発的な知性を持つというような貧困な想像力ではとても想像しきれない超存在になってるだろうし。その宇宙人の文明と人類文明に一億年の差がある可能性だって、十分あり得るし。宇宙に広がる何千億個もの恒星系のうち、文明が生まれたのがこの太陽系以外は皆無、なんて、その方がよっぽど確率的に低いかもしらんし。。。」とかも、漠然と、意識の片隅で思うことがよくある。

でも、もちろん、価値判断はその都度するし、意志決定もその都度する。そうしないと、生活も仕事も前に進まないから。価値のあるものと無いものの区別がつかないと、行動の優先順位が決まらない。生活や仕事の方針が立たない。戦略が立たず、計画もできず、場当たり的に行動するしか無くなる。何もかもが不確かだからこそ、意志決定というものが必要なのだと思っている。何が価値で何が無価値かを、その都度決定し続けなければいけないのだと思っている。不確定性が一切無ければ、意志決定も価値判断も、そもそもいらない。そして、価値判断とは、価値のあるものを称揚し、価値のないことを見下すことに他ならないのじゃないかとも思う。

あと、謙遜の欺瞞を嘲笑したくなることもある。

昨日も、橋本治という人の本を立ち読みしたとき思ったのだけど、彼のように、明らかに常人より優れている人が、「ぼくのようなつまらない者が」とか「ぼくのような凡人が」って言ったり書いたりしているのを見て、「ハイハイ、こんなのどう見てもウソです。インチキです。読者の嫉妬や反感をかわすためだけにそれを書いていて、単なるいやらしい大人の処世術です。でも、そんなことは世間のお約束なので、そんなことを指摘したくなる僕はただのガキだから、ぼくは黙るしかないんだけど、やっぱりそれはムカつくし嫌だな。」って心の中で独り言を言っている自分がいる。

実際、ぼくは、損だと分かっていて、その謙遜という処世術をあえてしないという、ガキっぽいことをしたくなることがあるのは確か。それもかなり頻繁に。

あと、それをやり出すと、文章に勢いが無くなってしまうんじゃないか、という不安もある。

あと、誰だって、自分にとって、興味のあるものと興味のないものがあるのは、当たり前でしょ?好きなものと嫌いなものがあるのは、当たり前でしょ?そして、人はだれしも、自分の興味のないもの、嫌いなものは価値がない、と無意識に感じちゃっている。価値がないと無意識に感じるということは、それは、無意識に見下している態度なんですよ。第一、価値がない、無駄だ、と思われたとき、思われた人は、当然不快になる。不快で当たり前。でも、同時に、何かに価値がない、と思うのも、当然で、当たり前だでしょう?だから、見下すことは、ごく自然な行為なんじゃないかとも思う。

ただ、問題は、その、見下した態度を、表に出さないのが、礼儀というもので、その礼儀がなっていないと言われれば、その通りなんだけど、それって、電子メールで、3行で伝わる用件を書くのに、「桜の季節もすぎ、ますます暖かくなっていく今日この頃でございますが、、、」などとどーでもいい文章から始めるのが、不快なのと同じで、「礼儀は良いから、さっさと中身を言え!!!」って言いたくなることもあるんでしょう、礼儀が混ぜ込んである文章って。もちろん、礼儀がないと、不快だ、という人が出てくるのも当然。どっちもいて当たり前。

というか、ぼくは、傲慢で偉そうな物言い自体に対しては、反感を持たないタイプの人間なので、その辺の感覚が、よく分かっていないという可能性もある。僕は嫉妬を持たないのか?そんなことはないと思うんだけど、偉そうにされて反感を持つことって、あまりない。偉そうにされてむかつくときって、どうみても中身が伴ってません、って感じの時。偉そうにすることそれ自体じゃなくって、中身の価値を粉飾決済していることが気に入らない。

いや、でも違うな。ぼくが全然価値を感じない分野において、すごく自信を持って偉そうにしゃべる人も、別に不快ではないし。それに価値を感じているんなら、その価値に満ちた自分を偉いと思うのは、自然なんじゃないか?って思いますね。まあ、傲慢不感症なのかもしれない。いや、意外にそういう人は多いんじゃないか?

。。。。なんか、どこまで言っても、結論めいたことは出てきそうにないので、この辺でやめときます。

要するに、僕は僕という人間がどういう人間かよく理解できていないので、僕についてうまく語ることが出来ないわけですね。というか、自分で自分を分かった気になっている人間の方がもしかしたらインチキかも知れないという可能性もある。いや、単に僕が未熟なだけという可能性もある。可能性がありすぎて、それはよくわからない。あらゆることは、よく分からない。だから、ぼくたちは、ただただ、価値判断し、意志決定し、行動し、結果をだし、人生を味わう。しかし、そういう態度は、間違っているかも知れない。いや、それ以外の何かを求めるのは、そもそも、地に足がついていないのかも知れない。僕のような普通の生活者にとっては。よく分からない。