科学とは

たとえば、リチャードドーキンスのselfish geneにあるように(利己的な遺伝子)、科学とは、自然現象を客観的に記述する行為のように見えて、実際には、人間の知覚系が理解しやすいように、解釈する行為。そうでないと、人間が科学の知見を自在に使いこなし、応用し、仕事や生活に役立てるのに都合が悪いから。
科学が、できるだけシンプルな解釈を好むのも、その方が、より少ない脳神経リソースで、自然を解釈し、予測し、操作できるから。
そして、人間の知覚系は、複雑なものを知覚し、解釈するとき、擬人化することで把握するのが都合がよい場合が多々ある。
だから、遺伝子と生命現象の関係を科学的に解釈しようとすると、遺伝子を擬人化することが、一番適切になる。生命は遺伝子の乗る船に過ぎず、遺伝子は自分を増殖させるための手段として生命の行動を操っている、と解釈した方が、生命の複雑な行動をわかりやすく解釈できる。
しかし、そこから自動的に、遺伝子が人間のような意識や欲望や意図を持っているのだ、という結論にはならない。その解釈を単なる道具だと考えるか、それとも、事実そのものだと考えるか、その二つの方法がある。
そもそも、人間にとって、感情反応などの心の動きが透明なのは、自分自身の意識や心についてだけで、自分以外の人間の心については、自分の心の中で起こっているのと同じような感情反応が起こっているのだろうな、と想像しているに過ぎない。人間は他人を擬人化することで、他人の中に心を見ているに過ぎない(擬私化と言った方が正確かもしれない)。その意味からすると、人間が遺伝子を擬人化し、そこに意図を見いだすのも、人間が他人の中に心を見いだすのと本質的には、なんら変わらない。森や湖に心がある、と考えた昔の人の精神世界を「非科学的だ」と笑うことは愚かな行為で、本質的には、他者の中に心を見いだすことと、樹齢千年の神樹の中に心を見いだすのは、等価な行為なのだから、その意味で、やおろずの神々は、「実在」する。
そして、自然を人間が理解しやすいように理解するその仕方は、実質的には、価値判断を含むのは避けがたいのではないか。たとえば、「人間も遺伝子の乗る船に過ぎない」、という科学的解釈は、人間の生の価値を貶めるような価値判断を促してしまう。
この意味で、人間の価値判断から完全に自由な科学を追求しようとすると、科学の実用性が毀損されかねない。たとえば、遺伝子を擬人化せずに、遺伝子と動物の行動の関係を記述しなければならないとしたら、やたらとわかりにくくて、非実用的なものになってしまう。そんなのばかばかしい。
なにより、遺伝子の擬人化によって様々な生命現象や動物の行動を説明する仕方には、強い説得力がある。素直に考えれば、いちばんそれが腑に落ちる。それは単なる解釈と言うより、事実そのもののように感じられる。それは価値と分かちがたく結びついているように感じらられる。それは価値判断とは別のものだ、と言われても、詭弁のように感じられる。
価値判断と科学を分離しようとする人には、隠された動機がある。科学も人間の知覚系・情動系の内側にしかないのにもかかわらず、そこから自由であるかのようなインチキを主張することで、その自然発生的知覚課題からの逃避を行っている。科学とは、人間の自然な誠実性の延長線上にあるものなのに、その誠実性をごまかそうとする欺瞞を行っている。
それを、それによって生命の価値が毀損されるからという理由で、否定するのは、欺瞞だ。それによって、抑圧される人間がいるからという理由で、価値判断とは切り離して考えるべきだというのにも、欺瞞を感じずにはいられない。コミュニケーションに限らず、人間の行動を生物学的に説明しようとするあらゆる試みは、すべて同じ。
だから、そういう科学的解釈が促してしまう価値判断が、自分にとって都合の悪いものだったら、それを否定するのではなく、それをいったん認めた上で、それを乗り越える価値を示すべきではないのか。もちろん、その科学的解釈が、不自然だと感じられるものならば、とくに相手をする必要はない。しかし、その科学的解釈が、人間の知覚系にとって自然な解釈であるのにもかかわらず、それが自分に都合が悪いから、という理由で、科学的解釈は価値判断と切り離されるべきだ、というのは、あきらかに、欺瞞だ。
本来あるべき姿は、自分にとって都合の悪い事実に目をつむることで自分を守ろうとするのではなく、天使も悪魔もひっくるめて引き受けた上で、それを乗り越えていく価値を創造することだろう。
この意味で、人間にとって都合の悪い科学的解釈も、それがある程度の有用性を持ったり、そういう解釈も可能だという場合は、それを素直に認めるべきだろう。また、価値判断の議論をしているときに、その価値判断の根拠となる科学的事実を持ち出すのはありだし、それを、一部の人を抑圧するからという理由で、その科学的事実・解釈自体を否定したり、それと価値判断は別物だ、という逃げを打つのは、欺瞞だと思う。それが気に入らなければ、それを認めた上で、それを超克する価値を創造し、提出すべきだ。
 
たとえば、漫画版のナウシカで、ナウシカは、王蠢をはじめとする腐海の生命だけでなく、風の谷を含め、その時代のほとんどの人間は、ある目的のために人工的に作られたものだということを知る。そして、ナウシカは、それを素直に認める。
 
 
 
そして、それを認めた上で、それにも関わらず、生命とは、それがどのように生まれたか、どのように生み出されたかを超えて、その創造者の意図や目的を超えて、その存在それ自体が価値を持ち、独自の目的を持つものであると、高らかに宣言するわけです。
銃夢でも同じテーマが出てくる。
 
 
 
デスティ・ノヴァは、自分がある目的のために計画的に「作られた」人間であることを知る。そして、次のように言う。
私はその生い立ちの人工的な点において戦闘アンドロイドとして作られた君たちと違いはない。
しかし、そのものが自由意志を持っているか、自動機械かは………生まれや体のつくりではなく…どう生きたかにかかっているのです!
自分が、他者の目的のために作られた存在である、ということほど、自分の価値を毀損するショックな事実はない。それは、科学的だったり客観的だったりする事実だけど、「単なる」事実ではなく、それは、自分の存在価値にとても重大な意味を持つ事実だ。「価値判断と事実は別のものだ」、という言明の画餅性が如実に表れたケース。それは、時として、分かちがたく結びついていて、それを別問題だというのは、絵空事というより、むしろ詭弁だ。実際、銃夢では、その事実に耐えることのできなかったロスコー君は、自暴自棄になってけっきょく死んでしまう。建前上は、それ自体は意味も価値も持たないはずの事実に殺されたわけです。
そして、にもかかわらず、その都合の悪い事実、起こっている現象から自然に導かれてしまう自然な現象解釈を、ナウシカもノヴァも直視し、そして、その上で、それを克服するのだ。決して、「それは単なる解釈に過ぎない」などという詭弁で逃げたりはしない。
この意味で、価値判断の根拠を科学に求めることは、なんら間違ったことではない。それが自分の存在を脅かすのなら、単にそれを克服する価値を創造すればいいだけだから。むしろ、マージナルマンがそのアイデンティティを脅かされることにより、独自のアイデンティティを創造し、歴史に名を残すほどの偉業を成し遂げることがよくあるように、それは大いなる価値を創造し、自分を飛躍させるチャンスなのじゃないかと思う。