「私」の存在と、「人間」の存在の関係

「私」が存在するのは、「私にとっては」奇跡だ。
なぜなら、「私にとっては」私以外の全てのひとは私ではないからだ。
「私にとっては」私が生きるか死ぬかは、世界が生まれるか滅ぶかと同じくらい重大事である。
「私にとっては」私は特別な存在なのだ。
 
 
そして、その、「「私」という最高に価値あるもの」が、とてつもなく少ない確率で生ずるのだと言うことは、「私」にとっては、たしかに感動ものだ。もともと高い価値を持つものが希少であるとき、人は、ますますそれを価値あるものだと「感じる」。そして、価値とは「感じる」ことからしか生じない。論理からは生じない。どれほど高度な論理を積み重ねても、価値についてはいかなる論証も反証も不可能だ。
だから、「私にとっては」、私という存在が希有であることは、私という存在の価値がますます高くなるということだ。
 
 
ところが、他人から見ると、私は、べつに奇跡でもなんでもない。
ただの一個の人間にすぎない。
そして、人間なんて、どこにでもありふれている。希有でもなんでもない。
私が死のうが行きようが、それは、世界の誕生と滅亡と、なんら関係のないことで、私が死のうが行きようが、世界の時間は、淡々と流れていく。
私という存在は、他人にとっては、少しも重大事ではないい。ありふれた存在で、希少性など無いから、価値など感じない。価値が感じられないと言うことは、価値がないと言うことだ。どんな高度な理屈を積み重ねようとも、感じられない価値が存在するということは論証できない。
 
 
 
 
もちろん、この宇宙も、奇跡でもなんでもない。
イワシの卵が途中で食われずに成魚になる確率はとても低いが、ダイソーで買ったイワシの缶詰を食べるたびに、そのあまりの奇跡に感動の涙を流したりはしない。
 
 
われわれの住んでいるような宇宙が生まれる確率は、10のマイナス1230乗かもしれないが、いままでに生まれた宇宙の数は、10の123000000000000乗かもしれない。
だとすると、こんな宇宙は、イワシの缶詰よりもありふれている。
 
 
ところが、「私」のいるこの宇宙は、そのうちのただ一つだけなのだ。私のいる宇宙が、たまたま、こんな美しい銀河で満ちあふれ、地球のような美しい惑星を生み出すようになる確率は、依然として、10のマイナス1230乗であり、それは、奇跡的なことだ。
 
 
要するに、その人間なり宇宙なりにつく冠詞が、aなのかtheなのかということだ。それにaをつけて見れば、それは、ありふれた価値の低いものになり、theをつけて見れば、それは唯一無二の貴重なものとなる。
 
 
この、主観的な視点と客観的な視点を混同すると、「奇跡的に生まれた命のすばらしさが云々」という話になってしまうが、個々の命など、いくらでも再生産が可能なわけで、それらは、奇跡でもなんでもない。
 
 
だた、一方で、「客観的に見ると、「確率が低いこと=有価値」ではないい」と結論づけるのも、早計である。
客観的な視点から見ると、あらゆることは無価値なのだから「客観的な価値」という概念そのものが自己矛盾しているのだ。
そもそも、あらゆる価値は、主観からしか生じないものだ。
子猫どころか、人を殺してはいけない理由すら、客観的に論証することなどできはしない。
 
 
しかし、主観的視点からばかり世界を見ると、コミュケーションは成立せず、人間関係も築けない。「私にとってこれは価値なのよ」という価値判断基準は、単なるおれ様主義で、自閉症的な世界観、独りよがりな価値判断体系だからだ。
「ぼくの存在は、奇跡なんだ!」と、瞳をキラキラさせながら感動しても、他人はしらけるだけだ。
 
 
結局のところ、ものごとの価値判断というのは、二つの尺度によってなされるしかなく、また、なすべきである。
その一つは、主観的な価値であり、もう一つは、共有主観的な価値だ。
 
 
 
 
共有主観的な価値とは、それが価値であることを、複数の人間の主観によって認めるということである。
たとえば、「人間の命には、価値がある。したがって、人を殺してはいけない。」ということを、複数の人間で認め合うことが、共有主観的な価値だ。
二人の人間の結びつきから、社会、あるいは、人類全体の価値観まで、基本はこの原理によって作られる。
 
 
そして、客観的な視点と、共有主観的な視点との混同が、多くの不毛な議論を引き起こす。
 
 
「客観的」という言葉が使われるとき、使う人の都合で、「共有主観的」の意味で使われたり、「純粋客観的」の意味で使われたりする。
そして、最初に純粋客観的な視点で話がはじまったのに、話の途中から、共有主観的な視点の話にすり替えられて、成立しないはずの理屈が成立してしまうというのは、実によくみられるパターンだ。
 
 
さらによく見られる勘違いが、いかなる価値判断も不可能な「純粋客観的視点」から、なにがしかの価値判断を導くロジックだ。
 
 
そもそも、価値というのは、人間の感情と利害の構造から生じるものであり、それ以外のいかなるものからも生じない。従って、それが、主観であれ、共有主観であれ、なにがしかの主観からしか、価値は生じないのである。それが、われわれが価値と呼んでいるもものの正体であり、それは確かに存在するものだが、それは、そこにしか存在しない。
 
 
だから、「私が存在するということは奇跡なのか?」という価値を内包する問題については、客観的な視点からどれほど高度なロジックを積み重ねようが、なにがしかの結論を導き出すのは、不可能なのだ。
 
 
従って、必然的に、「私が存在するということは奇跡なのか?」という問題に対する答えは、主観、もしくは、共有主観の中に存在する。日常、われわれが使う、意味とか価値とかいう言葉の実体は、ここにある。そこ以外の場所にはどこにもないというだけでなく、昔からそこにしっかりと存在する。
 
 
にもかかわらず、そこ以外の場所を探して、価値がない、と思いこんでトンデモな理屈をこねる人間はとても多い。
ようするに、「客観的に見てそれは価値がない」という理屈をこねる人間は、すべからく「価値」とはなにかが見えていないのだ。自分にそれが見えていないために、それを無価値だと考えるという錯誤を犯し、「価値でもないものを、価値だとあがめる大衆」をあざ笑っているつもりになっている。滑稽でもあるが、可哀想でもある。
 
 
そして、意味と価値の唯一のありかである主観から見ればーーー別の言い方をすれば「私にとっては」ーーー「私が存在すると言うことは、奇跡以外のなにものでもない」ということになる。
また、共有主観からみると、「ま、オレもおまえも、この宇宙に住んでいるわけで、この宇宙は、オレとおまえにとっては、唯一無二のすみかなんだから、それも奇跡だよな。」というところに落ち着くのが、まあ、妥当な線だろう。
 
 
ただし、共有主観的な視点から見ると、「あなた」は、奇跡でも特別でもなんでもないわけではあるが。