言葉は定義できるのか?

たとえば、パンツ見えそうなほどの超ミニスカートをはいて歩いている女子高校生とか、近所の若奥さんとか、スーパーにいるおばちゃんとか、山手線にゆられてるスーツを着たおじさんとか、その辺のフツーの人が使う言葉が、広義の意味での言葉の定義と一致してるのか?
それがずれている場合、ふつーの人の言葉の定義が間違っていて、広義の言葉の定義が正しいのだから、1億2000万人の日本人は、その定義を使うべきだって言ってもそうはならないわけで。そこが、たとえば、コンピュータサイエンスと違うところだと思う。たとえば、30年ぐらい前に、LISPは、functionの定義を変えた。同じ言葉のまま、言葉の概念を拡張して、multiple dispatchするような、generic functionをfunctionということにした。いままでのfunctionの概念は、狭かったので、より広い概念に書き換えたわけ。この場合は、それは、それで、アリだと思う。
何でかというと、その方が、単に便利だから。でも、それは、工学だから、そういうことができる。あるいは、科学でも同じで、より便利な言葉の定義に、定義をどんどん書き換えていくことができる。
でも、日常語はそれらとは違うのではないか?こっちの方が、整然としていて、便利な言葉の定義だ、と言ったところで、実際に1億2000万人が別の定義で使っているのだとしたら、少なくとも、フツーの人たちにとっては、広義の意味での言葉の定義の方が「間違っている」言葉の定義な訳で。いくらそれらが論理的には間違っている言葉の使い方だとしても、多くの人が使っている言葉の方が正しい日本語になる。
ようするに、後期ウィトゲンシュタイン言語ゲームから連想できるようなイメージだけど、日常語の言葉の定義とは、「現にどのように使われているか」ということによって定義される以外、実質的にはあり得ないんじゃないかと。