文字を書くということ

自分の中の感情や思考って、かなりカオスで、立体的、いや多次元的構造物だから、それをそのまま一次元的な文章にしようとすると、意味不明の文字列になっちゃうのではないのかな。いや、文字列にすることすらできないのではないのか。

文章として意味をなすように、というきついきつい制約条件が、根本的な変質を引き起こすんじゃないだろうか。文章として意味をなすように自分の思考や感情を整形すると、その整形や構造化を行うことで、それは、元の思考や感情とは別物になっちゃう。自分でしか読まないプライベート日記ですら、そうなっちゃう。どんなに正直に書こうとしても、それは、自分の思考や感情から独立した異質の何かになってしまっているのに、それに自分が気づいていないだけなのじゃないのか。

まして、自分以外の人間が読んでも、意味をなす体裁や構造に形作ると、もうそれは、元の自分の思考や感情とは別の何かじゃないのか?自分の思考や感情を素材にはしているけど、それを読み手に伝わるように加工するとき、そば粉100%にはなならなくって、読み手と自分が共有しているであろう、常識とか偏見とか正論とか極論をつなぎとして混ぜ込んで、組み立てているのではないのか?そもそも、オリジナルのそばの実と、ソバ屋で食べるそばは、別物だ。異質の何かだ。蕎麦の実は、食べられるように加工しなきゃならない、というきついきつい制約条件によって、異質の何かに変質せざるを得ない宿命を負っている。

そして、その組み立てや加工において、どんなに素材の良さをシンプルに引き出そうと努力しても、それは、素材とは別の作品、すなわち、自分の感情や思考とは別の何かになってしまっているのではないのか?

その意味で、「ネタをやっているつもりは微塵もなく」とは言うものの、自分の思考や感情以外の何かを、読者に伝えるために作り上げた構造物であるならば、それが、自分の意見だ、というのは、思いこみに過ぎないのではないのか?「わたしは(ネタでなく)本気で極論を書いている。偏見を本気で書いている。」ということが可能だというのは、幻想に過ぎないのではないか?自分の思考や感情以外のものを作り上げているのだから、それは、ネタ以外のなにものでもないのではないのか?

そもそも、面白いことを書こう、ということに自覚的である時点で、それはネタを書いていることと、同じじゃないのか?

そもそも、ネタ、ということの定義は、真実性よりも、おもしろさを優先で作り上げた作品、というものなのじゃないのだろうか?だったら、面白いことを書こう、とどこかで自覚してしまった時点で、それは、ネタを自覚的に書いているということになってしまうのではないのか?

だから、面白さを追求して文章を書く人は、すべからく、自分の文章のネタ化から逃れられないのではないのか?

ネタ化からの逃走は、どこまで可能なのだろうか?