役に立つ、役に立たない

哲学や文学みたいなものというのは、権力や体制に潜む欺瞞、人間の醜悪な差別心や嫉妬心をえぐり出しているものなので、僕のような社会からはぐれた側の人間にとっては、読んでいてとても痛快で気持ちがいい。だからすごく役に立つ。

一方、まっとうな社会人の方々にとっては、自分たちが作り上げてる仕組みを批判するものなので、こんなもの社会を維持していく上で全く役に立たないどころか、むしろ害悪。


実際に、社会の制度は差別で溢れていて、それを誰が作り上げ、維持してるのかというと、つまりは社会に参加している我々一人一人ということになる。なので、いくら良識派の知識人を集めて議論をしたところで、イジメも差別も永遠になくならない。だって、
「差別をなくそう!」
とキレイゴトを言っている人も、場所を変えればどこかで誰かを日々差別して生きているはずだから。そんなのただの偽善でしかない。


だから、知識人が弱者の声を政治的に正しく代弁するのではなくて、実際に差別に遭っている当事者の人々が声を挙げて、怒りを相手にぶつけるべきだと思う。
本来、様々な異なる立場のリアルな声を聞くことで、傷ついたり傷つけられたりっていう方が本来は健全なあり方だと思うけれど、今のネットでは自分とは異なるクラスタにまで意見が届きにくい。結局、不特定多数に届くのは、政治的に正しいけど味気ないものばかり。

 

「そんな声に耳を傾けても、何のメリットにも繋がらないから時間の無駄」
とか言われるかもだけど、そもそも、人間はメリットとか打算だけで生きている訳ではない。
「結局世の中金だし、みんな良い生活したいだけなんだろ?自分の欲求に忠実なヤツの方が総じて有能だよ」
と言われても、少なくともぼくは、人付き合いの基準を別に有能かどうかだけで決めている訳ではない。


毎年このくらいの時期になると、Twitterとかで斜陽産業を志望する若者を嘲笑するような意見が必ず出てくる。
でも、やっぱりそういう人がいないと、文化そのものが消滅してしまう。

 

今のITって、大きな波が来たら、その局地バブルの恩恵に要領よくあずかって、その波が過ぎ去ったら、次の新しい金の匂いのするところを探すといった山師的な考えが主流だと思うけど、それだけでは文化は生まれない。

もちろん、
「業界全体がどんな状況だろうと、やるヤツは勝手にやるし、やらないヤツはやらない。個人がどう動いても、社会全体に大した影響はない」
という意見はあるだろう。けれど、結局、文化って損得勘定計算できないアホが作り上げているところってあると思う。


ビジネス的にも何の役にも立たないし、ただ単に人々を不愉快にさせて傷つけ合うだけの活動や表現を守ることも、人生の豊かさの為にとても大切だと思う。

自分自身も、いつかそういうマッチングのサービスを作りたい。