日本における最大のタブー

キリスト教とか、王室とかを西洋の文脈と同じように日本のタブーだと捉えるのは間違っている。


何故なら、日本と西洋では文化の歴史が全然違うので、当然の事として、タブーもかなり違っている。
でも、日本のインテリは、西洋文化をそのまま輸入してタブーを突いたとか勘違いしてしまっているので、結果としてピントのズレた言説に終始してしまっている。

そして、何で日本のインテリは西洋の文脈でしか日本を批判しないのかというと、一般的に日本の歴史に詳しいヤツにまともな人間はいないという事になっているからだ。
国学に詳しかったり、神道や東洋哲学に詳しいヤツは、基本的に、間違ったナショナリズムに吹き上がってしまっている連中であり、つまりは日本文化を変える側ではなく、日本古来の文化を護ろうとしている連中だ、という国民の共通認識になっている。
だから、日本を変えようとするインテリたちは日本の歴史を重視していない。

アニメや漫画や同人誌やゲームなどを見る限り、日本にはタブーなどまったく存在しないようにも思える。
クソコラが海外で絶賛されたのも、
「タブー無視のアナーキーな日本マジ最先端すぎてヤベーーー!!!」
っていう事だったと思う。

しかし、それはタブーが存在していないというよりも、単に社会に対する実効的な機能がないというだけだと思う。
現に、BL作品や二次創作をいくら量産したところで、日本で同性婚を認めるというところまで行かないし、著作権問題もどんどん厳しくなるだけ。
しかも、クソコラに関しては、最終的に人質二人を助けることが出来なかったばかりか、むしろISISの反感を買ってしまって、火に油を注ぐだけという全くの逆効果に終わるという結果になってしまった。
だから、日本のネット・オタク文化が世界におけるタブー上等の最先端文化だとは思わない。


では、日本におけるタブーは一体どこにあるのか。

結論から言うと、それは、オタク文化そのものだと思う。
アニメキャラは、単なる画の連なりで血などまったく通っていないのに、オタクたちはそこに本気で魂を見いだし感情移入し、そのキャラたちが活躍する土地に実際に行って聖地巡礼をする。

無宗教の日本人は、虚像のアニメキャラやアイドルやテレビタレントを神格化し、ある種の独特のコミュニティを作り共同体験を望む。

これらの行動は、一般的に危険だとは全く思われていないが、実効的な機能も何も持たない。もしかしたら体育会系やヤンキー文化も同じなのかもしれない。分からない。

日本の最大のタブーは、天皇創価学会などではなく、社会的な機能が備わっていない虚構に身を委ねてしまう日本人のメンタリティそのものだと思う。

良いものは良いと言いたい

評論家は、どれだけその作品を褒めちぎって、その作品の魅力を上手く言語化して、多くの人に伝えることに成功しても、自分が作った訳じゃないから見返りはほとんどないし、それどころかお前は何も作っていないクセにエラそうにしやがってと軽く扱われて見下されることもある。
だから、評論家って、基本的に貧乏くじを引く役割を担っているのだと思う。誠実な評論家であればあるほど、そうなる。


でも、そういう評論家がいないと、表に出てこない作品もかなり多い。

 

何故なら、作品を作るクリエイターの人たちの多くは、
「私は、ただ作りたいからこれを作った」
と言って、作品の意味や解釈を他の人に委ねているし、そして、そういう姿勢こそがクリエイターとしてのあるべき姿という風潮があるから。

なぜ、相手の解釈に委ねた姿勢こそクリエイターとしてのあるべき姿だという風潮があるかというと、その方が敷居が低くて、より多くの人に開かれている感じがするから。
しかし実際には、とくに現代美術に顕著だが、
「その分野の歴史の文脈を知っている」
という前提の上での自由な解釈でしかないので、本当のところは、内輪の中で盛り上がっているだけで、全然開かれた表現でもなんでもない。

 

たとえば、id:kotoriko氏の、「コトリコトリコ」は、僕も未だにテキストで保存して持っている位お気に入りの作品だけれど、それでも分裂勘違い君劇場で紹介されていなければ、きっと僕が読む機会はなかっただろうし、コトリコトリコを読む機会に恵まれた人の中でも、「は?何これ意味わからん」って人はきっとたくさんいたと思う。

 

「解釈は自由です。ぼくの作りたいものを感性だけで作りました」
とか言っていても、その先にあるのは、分かっている奴だけに届くアートという状況でしかないし、そして、その状況を変えない限り、「美術とか文学やっている奴らは話の通じない馬鹿な奴らだ」という、世の中から浮世離れした存在として扱われている風潮も一向に変わらないと思う。能とかは最早そうなって久しいし。


だから、自分が良いと思ったものは良いと言いたいし、多くの人に届くためには、明晰で論理的な言葉を使うことはとても重要だと思う。

役に立つ、役に立たない

哲学や文学みたいなものというのは、権力や体制に潜む欺瞞、人間の醜悪な差別心や嫉妬心をえぐり出しているものなので、僕のような社会からはぐれた側の人間にとっては、読んでいてとても痛快で気持ちがいい。だからすごく役に立つ。

一方、まっとうな社会人の方々にとっては、自分たちが作り上げてる仕組みを批判するものなので、こんなもの社会を維持していく上で全く役に立たないどころか、むしろ害悪。


実際に、社会の制度は差別で溢れていて、それを誰が作り上げ、維持してるのかというと、つまりは社会に参加している我々一人一人ということになる。なので、いくら良識派の知識人を集めて議論をしたところで、イジメも差別も永遠になくならない。だって、
「差別をなくそう!」
とキレイゴトを言っている人も、場所を変えればどこかで誰かを日々差別して生きているはずだから。そんなのただの偽善でしかない。


だから、知識人が弱者の声を政治的に正しく代弁するのではなくて、実際に差別に遭っている当事者の人々が声を挙げて、怒りを相手にぶつけるべきだと思う。
本来、様々な異なる立場のリアルな声を聞くことで、傷ついたり傷つけられたりっていう方が本来は健全なあり方だと思うけれど、今のネットでは自分とは異なるクラスタにまで意見が届きにくい。結局、不特定多数に届くのは、政治的に正しいけど味気ないものばかり。

 

「そんな声に耳を傾けても、何のメリットにも繋がらないから時間の無駄」
とか言われるかもだけど、そもそも、人間はメリットとか打算だけで生きている訳ではない。
「結局世の中金だし、みんな良い生活したいだけなんだろ?自分の欲求に忠実なヤツの方が総じて有能だよ」
と言われても、少なくともぼくは、人付き合いの基準を別に有能かどうかだけで決めている訳ではない。


毎年このくらいの時期になると、Twitterとかで斜陽産業を志望する若者を嘲笑するような意見が必ず出てくる。
でも、やっぱりそういう人がいないと、文化そのものが消滅してしまう。

 

今のITって、大きな波が来たら、その局地バブルの恩恵に要領よくあずかって、その波が過ぎ去ったら、次の新しい金の匂いのするところを探すといった山師的な考えが主流だと思うけど、それだけでは文化は生まれない。

もちろん、
「業界全体がどんな状況だろうと、やるヤツは勝手にやるし、やらないヤツはやらない。個人がどう動いても、社会全体に大した影響はない」
という意見はあるだろう。けれど、結局、文化って損得勘定計算できないアホが作り上げているところってあると思う。


ビジネス的にも何の役にも立たないし、ただ単に人々を不愉快にさせて傷つけ合うだけの活動や表現を守ることも、人生の豊かさの為にとても大切だと思う。

自分自身も、いつかそういうマッチングのサービスを作りたい。