「カメラを止めるな!」を観た感想(ネタバレあり注意)

 昨夜のレイトショーで観てきた。
全体的な印象としては「面白かった」し、評判が良いのも納得だけれど、エンタメ作品の物語として、「メタフィクション」的な仕組みと、「最初に謎を提示せずに伏線を張る」という展開をしたところの2つが気になった。

 
 それは一体どういうことかというと、まず、「メタフィクション」的な仕組みの問題から説明していく。
 
 そもそも、いわゆる王道と呼ばれる物語には、

「1つの不条理が次の不条理を呼び寄せ、その不条理が更に次を呼び寄せる、、、」

といった共通の形式がある。
 そして、これとは逆の1つの作品内に複数の不条理がありながら、これが連続しない場合は自動的に「メタフィクション」となる。つまり、Aという不条理が提示されている間に、それとは全く無関係なBという不条理が提示されることによって、作品が複層的な構造を持つようになる。
 この手法は、短編向きの不条理しか作れない、あるいは長編に不慣れな作家が、どうにかして長編物語を作ろうとして、尺を伸ばすために短い射程しかない不条理を詰め込んだ結果、相互の連続性を失い、その結果として自動的に「メタフィクション」になってしまうケースがよくあり、今回の「カメラを止めるな!」もそれに当てはまるような気がする。
 言うまでもなく技術的に高度なのは不条理の連続性を作り出すことで、これを「繋ぎ」と呼ぶ。
「繋ぎ」の技術があれば、わざわざ作品をメタにする必要はないし、それ以前に長尺に適した不条理を事前に選択しておけば、こうした問題は発生しない。

 
 次に「最初に謎を提示せずに伏線を張る」問題についてだが、王道ミステリでは、よく

「前振りとして、欠損=謎を提示することで、観客の興味を惹き、その後で答えを示す」

ことでシーン、あるいはシークエンスを繋ぐ方法が使われており、この手法のメリットは、

「謎を提示することで、視聴者の興味を惹きつける」

事にある。
  どんな娯楽でもそうだけど、オープニングで視聴者の興味を惹くことは重要だから、インパクトのあるシーンをトップに持ってくる方法と並んで、謎の提示は好まれる傾向にある。

 じゃあ、このタイプの「繋ぎ」にはどんなデメリットがあるのか?というと、すぐに思いつくのは、これもやはり「長編に不向き」だということ。つまり、シーン、あるいは連続性を繋ぐのに、全て欠損情報=謎=伏線を提示していたら、長編を書いていく際に膨大な伏線を張っていく必要性が出てきてしまう。
 

  だからこそ、本作の「カメラを止めるな!」では、前述した「メタフィクション」的な手法を取り入れたんだろうということはある程度は邪推できる。

   しかし、謎解きというのは、最初に謎が提示されなければ、受容者はそれを謎だと認識できない。にも関わらず、短編志向のある作家は、最後に出した情報で「大どんでん返し」をしたがる傾向が如実にあるので、情報を隠したがる。すると、高確率で「謎を提示する」という情報の配置方法を選択しない。         

  だから、重要な前振り=「謎」としての機能がされていない。その状態で「実はこんなことがありました!」と後から説明をされても、そこまでの驚きは生まれない。

  そして、これはあくまで「理想論」だが、そもそも、ストーリーが面白ければ、わざわざ欠損情報を視聴者に提示して、そこで興味を惹くという手法を使う必要はないと思う。



 完璧な創作物はこの世に存在しないので、どんな作品でもケチをつけようと思えば可能だし、また評価に個人的な嗜好が入るのは避けられないけど、

ストーリー・テリング(客観視しやすい)
②状況描写のテクニック(情報量を吟味できる)

この二つを意識するのは、作品のクオリティを保つためにも必要な気がする。

 
 そして、ここからはもう完全なただの私見になるけれど、そもそも自分は、今回の「カメラを止めるな!」を観に行くにあたって、なるべく事前の前情報はシャットアウトして観に行ったのだが、それでも、低予算で評判の良い映画ということは耳に入っていたので、その段階で、

「これはかなり高い確率でフェイクドキュメンタリーかメタフィクションもの、あるいはその両方だろうなー」

と予測していたので、実際に鑑賞してみると、やっぱりそうだったかーという感想だったというのが正直なところだった。
 これは、少ない予算でヒット作を出そうとすると、もしかしたら使わざるを得ない手法なのかもしれないけれど、まあ、そういった事情があり、物語において最初の前振りにあたる「フェイクドキュメンタリー」の部分で、なんかおかしいなと感じたところが何度かあった段階で、

「これはメタ的な展開になる可能性があるかも」

と前振りの仕掛けを何となく察してしまい、けっきょく物語にあまりハマれなかったという結果になってしまった。
 

 まあ、そんなぼくみたいな人は少数派だからこそ、ここまで評判が良いんでしょうけど笑

人生はゲームか?

「人はそれぞれのゲームを生きているのだろう」と考えると、気が楽になる。

「それはしょせんゲームだ」と解釈することで、人生という重たいものを軽くし、そこに詰まっている苦しみを解毒する。

だから、苦しみから逃げるために、「人はそれぞれのゲームを生きているのだろう」と考えたくなる。

 

もちろん、人生をむやみに重たく考えたがる人はうっとうしい。

人生なんて、そんなごたいそうなもんじゃない。

 

ただ、逆に、人生をむやみに「無意味化」しようとするのもまた、どこかウソっぽい感じがする。

 

なぜなら、ゲームの内側にいる人間にとっては、ゲームはゲームではあり得ないからだ。

自分だけは、ゲームの外側に立って、ゲームを眺めているつもりでも、実際には、つもりになっているだけだろう。

おそらくは、「人生はゲームだ」と言っている本人ですら、それを意識の片隅で感じているだろう。

そして、だからこそ、「人生はゲームなんだ」と言わないではいられない。

 

もちろん、論理や理性は、ゲームから出られる。

だから、人生はゲームだと「考える」ことができる。

 

でも、情動や直感や無意識は、ゲームから出られない。

だから、どんなに人生はゲームだと「考え」ようとしても、人生はゲームじゃないと「感じ」てしまう。

 

ゲームの中の存在にとっては、ゲームこそがリアルで、ゲームを「単なる」ゲームだと感じることはできない。

ゲームをゲームとしてプレイすることができるのは、われわれがゲームの登場人物そのものではなく、ゲームの外にいて、登場人物を操っているからだ。

 

しかし、われわれが、ゲームの登場人物そのものになったら、話は別だ。

ゲームの中で、その登場人物がペンチで唇や鼻をむしり取られて、絶叫し、涙を流し、失禁するとき、登場人物にとっては、それは、ゲームではあり得ない。

どんなにそれがゲームだと言い張ったところで、「これはゲームなんだぁ!!!」という絶叫が虚しくこだまするだけ。

 

頭では、「これはゲームだ」と思うことができるが、フィーリングがそれを裏切るのだ。感覚は、それがゲームではなく、リアルだと告げるのだ。

 

そして、それは、暴力に限らない。自分が好きな女の子を寝取られたとき、「これはゲームに過ぎないから」と言ってもむなしいばかりだ。

 

なぜそうなるのかというと、われわれの情動や直感や無意識は、すべて、教育や文化のような、後天的なソフトウェアによって作られているわけではなく、無制限に書き換え可能なものではないからだ。

 

情動や直感や無意識を生み出しているのは、億年もの時をかけてチューニングされつづけてきた、我々ニューロン神経伝達物質、ホルモン、そして、細胞レベルにまで及ぶとてつもなく高度で複雑な分子的構造体だ。それは、我々が考えているほど、我々の自由になるものではない。

情動、直感、無意識、フィーリングはそういったものによって強く支配されている。

 

そして、われわれは、重たくてやっかいな人生から逃れるために、この支配を打ち破ろうとする。

つまり、「人生は、ゲームに過ぎない」と考えようとする。

 

でも、「この支配」とはなんなのか?

「なに」がわれわれを支配しているのか?

 

実は、支配しているものの本体こそが、「自分」なのではないだろうか?

われわれは、重たくてやっかいな人生から逃げようとして、自分から逃げてしまっているのではないだろうか?

 

もちろん、何事も本能のままに生きるべきだということにはならない。

それは、自分を形成する重大なパーツではあるが、それだけが自分のすべてではないから。

しかし、自分の中からせり上がってくる感情が存在しないのだと思いこもうとすることもまた、自己欺瞞になる。

 

だから、俯瞰したことを言う者には注意した方がいい。

メタ視していい気になっている者もあまり信用しないほうがいい。

 

頭では俯瞰できても、、理屈ではメタ視できても、自分を根本的に規定する情動やフィーリングは、常にベタでしかあり得ないのだから。

 

ゲームの内側にいる者にとって、ゲームはゲームではあり得ないのだから。

リアルな人生は、どこまでいっても、リアルでしかあり得ないのだから。

「他人を見下している」とよく言われる件について

 ぼくは、よく「他人を見下している」と指摘されることがある。

たしかに、「そう言われたら見下しているかもなー」と思わないでもないけれど、しかし、ぼくは、下水の泥の中で蠢く単細胞生物たちは、侮れないと思ったりする気分の時も、ある。もしかしたら、スゴイ奴らなんじゃないかと無意識のうちに警戒している。油断ならないと思っている。見下して侮った瞬間、やられるんじゃないか、という不安が、意識のどこかにある。もしかしたら、いつか僕を救ってくれる白馬の騎士になるかもしれないし、バカにしたり見下したりなんてありえないな、とか、ぼーっと考えていたりすることもよくある。それは、単細胞生物だけでなく、人間を含めたあらゆる生き物、いや、無生物を含めた森羅万象の何についても、そう思うことがよくある。本気でそう思うことがよくある。どんなによく理解した気になったときも、警戒だけは解かないでいる。どんな完璧な理解も、誤解である可能性が常にあるから。

 

一方で、IQ200でスポーツ万能容姿端麗で15カ国語を話せて、図書館の本をまるごと全部読破し、歴史を動かすような偉業を成し遂げ、大勢の人に支持されるカリスマがもしいたとしても、「もしかしたら、そのうち、IQ100000000ぐらいの宇宙人が地球にやってきて、その宇宙人から見たら、そのカリスマと常人の差なんて、誤差になっちゃうかもなー。だって、宇宙的な時間の流れからすると、1億年なんて、誤差なわけで、一億年後の人類なんて、遺伝子操作して量子コンピュータを脳に埋め込んで爆発的な知性を持つというような貧困な想像力ではとても想像しきれない超存在になってるだろうし。その宇宙人の文明と人類文明に一億年の差がある可能性だって、十分あり得るし。宇宙に広がる何千億個もの恒星系のうち、文明が生まれたのがこの太陽系以外は皆無、なんて、その方がよっぽど確率的に低いかもしらんし。。。」とかも、漠然と、意識の片隅で思うことがよくある。

でも、もちろん、価値判断はその都度するし、意志決定もその都度する。そうしないと、生活も仕事も前に進まないから。価値のあるものと無いものの区別がつかないと、行動の優先順位が決まらない。生活や仕事の方針が立たない。戦略が立たず、計画もできず、場当たり的に行動するしか無くなる。何もかもが不確かだからこそ、意志決定というものが必要なのだと思っている。何が価値で何が無価値かを、その都度決定し続けなければいけないのだと思っている。不確定性が一切無ければ、意志決定も価値判断も、そもそもいらない。そして、価値判断とは、価値のあるものを称揚し、価値のないことを見下すことに他ならないのじゃないかとも思う。

あと、謙遜の欺瞞を嘲笑したくなることもある。

昨日も、橋本治という人の本を立ち読みしたとき思ったのだけど、彼のように、明らかに常人より優れている人が、「ぼくのようなつまらない者が」とか「ぼくのような凡人が」って言ったり書いたりしているのを見て、「ハイハイ、こんなのどう見てもウソです。インチキです。読者の嫉妬や反感をかわすためだけにそれを書いていて、単なるいやらしい大人の処世術です。でも、そんなことは世間のお約束なので、そんなことを指摘したくなる僕はただのガキだから、ぼくは黙るしかないんだけど、やっぱりそれはムカつくし嫌だな。」って心の中で独り言を言っている自分がいる。

実際、ぼくは、損だと分かっていて、その謙遜という処世術をあえてしないという、ガキっぽいことをしたくなることがあるのは確か。それもかなり頻繁に。

あと、それをやり出すと、文章に勢いが無くなってしまうんじゃないか、という不安もある。

あと、誰だって、自分にとって、興味のあるものと興味のないものがあるのは、当たり前でしょ?好きなものと嫌いなものがあるのは、当たり前でしょ?そして、人はだれしも、自分の興味のないもの、嫌いなものは価値がない、と無意識に感じちゃっている。価値がないと無意識に感じるということは、それは、無意識に見下している態度なんですよ。第一、価値がない、無駄だ、と思われたとき、思われた人は、当然不快になる。不快で当たり前。でも、同時に、何かに価値がない、と思うのも、当然で、当たり前だでしょう?だから、見下すことは、ごく自然な行為なんじゃないかとも思う。

ただ、問題は、その、見下した態度を、表に出さないのが、礼儀というもので、その礼儀がなっていないと言われれば、その通りなんだけど、それって、電子メールで、3行で伝わる用件を書くのに、「桜の季節もすぎ、ますます暖かくなっていく今日この頃でございますが、、、」などとどーでもいい文章から始めるのが、不快なのと同じで、「礼儀は良いから、さっさと中身を言え!!!」って言いたくなることもあるんでしょう、礼儀が混ぜ込んである文章って。もちろん、礼儀がないと、不快だ、という人が出てくるのも当然。どっちもいて当たり前。

というか、ぼくは、傲慢で偉そうな物言い自体に対しては、反感を持たないタイプの人間なので、その辺の感覚が、よく分かっていないという可能性もある。僕は嫉妬を持たないのか?そんなことはないと思うんだけど、偉そうにされて反感を持つことって、あまりない。偉そうにされてむかつくときって、どうみても中身が伴ってません、って感じの時。偉そうにすることそれ自体じゃなくって、中身の価値を粉飾決済していることが気に入らない。

いや、でも違うな。ぼくが全然価値を感じない分野において、すごく自信を持って偉そうにしゃべる人も、別に不快ではないし。それに価値を感じているんなら、その価値に満ちた自分を偉いと思うのは、自然なんじゃないか?って思いますね。まあ、傲慢不感症なのかもしれない。いや、意外にそういう人は多いんじゃないか?

。。。。なんか、どこまで言っても、結論めいたことは出てきそうにないので、この辺でやめときます。

要するに、僕は僕という人間がどういう人間かよく理解できていないので、僕についてうまく語ることが出来ないわけですね。というか、自分で自分を分かった気になっている人間の方がもしかしたらインチキかも知れないという可能性もある。いや、単に僕が未熟なだけという可能性もある。可能性がありすぎて、それはよくわからない。あらゆることは、よく分からない。だから、ぼくたちは、ただただ、価値判断し、意志決定し、行動し、結果をだし、人生を味わう。しかし、そういう態度は、間違っているかも知れない。いや、それ以外の何かを求めるのは、そもそも、地に足がついていないのかも知れない。僕のような普通の生活者にとっては。よく分からない。

科学とは

たとえば、リチャードドーキンスのselfish geneにあるように(利己的な遺伝子)、科学とは、自然現象を客観的に記述する行為のように見えて、実際には、人間の知覚系が理解しやすいように、解釈する行為。そうでないと、人間が科学の知見を自在に使いこなし、応用し、仕事や生活に役立てるのに都合が悪いから。
科学が、できるだけシンプルな解釈を好むのも、その方が、より少ない脳神経リソースで、自然を解釈し、予測し、操作できるから。
そして、人間の知覚系は、複雑なものを知覚し、解釈するとき、擬人化することで把握するのが都合がよい場合が多々ある。
だから、遺伝子と生命現象の関係を科学的に解釈しようとすると、遺伝子を擬人化することが、一番適切になる。生命は遺伝子の乗る船に過ぎず、遺伝子は自分を増殖させるための手段として生命の行動を操っている、と解釈した方が、生命の複雑な行動をわかりやすく解釈できる。
しかし、そこから自動的に、遺伝子が人間のような意識や欲望や意図を持っているのだ、という結論にはならない。その解釈を単なる道具だと考えるか、それとも、事実そのものだと考えるか、その二つの方法がある。
そもそも、人間にとって、感情反応などの心の動きが透明なのは、自分自身の意識や心についてだけで、自分以外の人間の心については、自分の心の中で起こっているのと同じような感情反応が起こっているのだろうな、と想像しているに過ぎない。人間は他人を擬人化することで、他人の中に心を見ているに過ぎない(擬私化と言った方が正確かもしれない)。その意味からすると、人間が遺伝子を擬人化し、そこに意図を見いだすのも、人間が他人の中に心を見いだすのと本質的には、なんら変わらない。森や湖に心がある、と考えた昔の人の精神世界を「非科学的だ」と笑うことは愚かな行為で、本質的には、他者の中に心を見いだすことと、樹齢千年の神樹の中に心を見いだすのは、等価な行為なのだから、その意味で、やおろずの神々は、「実在」する。
そして、自然を人間が理解しやすいように理解するその仕方は、実質的には、価値判断を含むのは避けがたいのではないか。たとえば、「人間も遺伝子の乗る船に過ぎない」、という科学的解釈は、人間の生の価値を貶めるような価値判断を促してしまう。
この意味で、人間の価値判断から完全に自由な科学を追求しようとすると、科学の実用性が毀損されかねない。たとえば、遺伝子を擬人化せずに、遺伝子と動物の行動の関係を記述しなければならないとしたら、やたらとわかりにくくて、非実用的なものになってしまう。そんなのばかばかしい。
なにより、遺伝子の擬人化によって様々な生命現象や動物の行動を説明する仕方には、強い説得力がある。素直に考えれば、いちばんそれが腑に落ちる。それは単なる解釈と言うより、事実そのもののように感じられる。それは価値と分かちがたく結びついているように感じらられる。それは価値判断とは別のものだ、と言われても、詭弁のように感じられる。
価値判断と科学を分離しようとする人には、隠された動機がある。科学も人間の知覚系・情動系の内側にしかないのにもかかわらず、そこから自由であるかのようなインチキを主張することで、その自然発生的知覚課題からの逃避を行っている。科学とは、人間の自然な誠実性の延長線上にあるものなのに、その誠実性をごまかそうとする欺瞞を行っている。
それを、それによって生命の価値が毀損されるからという理由で、否定するのは、欺瞞だ。それによって、抑圧される人間がいるからという理由で、価値判断とは切り離して考えるべきだというのにも、欺瞞を感じずにはいられない。コミュニケーションに限らず、人間の行動を生物学的に説明しようとするあらゆる試みは、すべて同じ。
だから、そういう科学的解釈が促してしまう価値判断が、自分にとって都合の悪いものだったら、それを否定するのではなく、それをいったん認めた上で、それを乗り越える価値を示すべきではないのか。もちろん、その科学的解釈が、不自然だと感じられるものならば、とくに相手をする必要はない。しかし、その科学的解釈が、人間の知覚系にとって自然な解釈であるのにもかかわらず、それが自分に都合が悪いから、という理由で、科学的解釈は価値判断と切り離されるべきだ、というのは、あきらかに、欺瞞だ。
本来あるべき姿は、自分にとって都合の悪い事実に目をつむることで自分を守ろうとするのではなく、天使も悪魔もひっくるめて引き受けた上で、それを乗り越えていく価値を創造することだろう。
この意味で、人間にとって都合の悪い科学的解釈も、それがある程度の有用性を持ったり、そういう解釈も可能だという場合は、それを素直に認めるべきだろう。また、価値判断の議論をしているときに、その価値判断の根拠となる科学的事実を持ち出すのはありだし、それを、一部の人を抑圧するからという理由で、その科学的事実・解釈自体を否定したり、それと価値判断は別物だ、という逃げを打つのは、欺瞞だと思う。それが気に入らなければ、それを認めた上で、それを超克する価値を創造し、提出すべきだ。
 
たとえば、漫画版のナウシカで、ナウシカは、王蠢をはじめとする腐海の生命だけでなく、風の谷を含め、その時代のほとんどの人間は、ある目的のために人工的に作られたものだということを知る。そして、ナウシカは、それを素直に認める。
 
 
 
そして、それを認めた上で、それにも関わらず、生命とは、それがどのように生まれたか、どのように生み出されたかを超えて、その創造者の意図や目的を超えて、その存在それ自体が価値を持ち、独自の目的を持つものであると、高らかに宣言するわけです。
銃夢でも同じテーマが出てくる。
 
 
 
デスティ・ノヴァは、自分がある目的のために計画的に「作られた」人間であることを知る。そして、次のように言う。
私はその生い立ちの人工的な点において戦闘アンドロイドとして作られた君たちと違いはない。
しかし、そのものが自由意志を持っているか、自動機械かは………生まれや体のつくりではなく…どう生きたかにかかっているのです!
自分が、他者の目的のために作られた存在である、ということほど、自分の価値を毀損するショックな事実はない。それは、科学的だったり客観的だったりする事実だけど、「単なる」事実ではなく、それは、自分の存在価値にとても重大な意味を持つ事実だ。「価値判断と事実は別のものだ」、という言明の画餅性が如実に表れたケース。それは、時として、分かちがたく結びついていて、それを別問題だというのは、絵空事というより、むしろ詭弁だ。実際、銃夢では、その事実に耐えることのできなかったロスコー君は、自暴自棄になってけっきょく死んでしまう。建前上は、それ自体は意味も価値も持たないはずの事実に殺されたわけです。
そして、にもかかわらず、その都合の悪い事実、起こっている現象から自然に導かれてしまう自然な現象解釈を、ナウシカもノヴァも直視し、そして、その上で、それを克服するのだ。決して、「それは単なる解釈に過ぎない」などという詭弁で逃げたりはしない。
この意味で、価値判断の根拠を科学に求めることは、なんら間違ったことではない。それが自分の存在を脅かすのなら、単にそれを克服する価値を創造すればいいだけだから。むしろ、マージナルマンがそのアイデンティティを脅かされることにより、独自のアイデンティティを創造し、歴史に名を残すほどの偉業を成し遂げることがよくあるように、それは大いなる価値を創造し、自分を飛躍させるチャンスなのじゃないかと思う。

「私」の存在と、「人間」の存在の関係

「私」が存在するのは、「私にとっては」奇跡だ。
なぜなら、「私にとっては」私以外の全てのひとは私ではないからだ。
「私にとっては」私が生きるか死ぬかは、世界が生まれるか滅ぶかと同じくらい重大事である。
「私にとっては」私は特別な存在なのだ。
 
 
そして、その、「「私」という最高に価値あるもの」が、とてつもなく少ない確率で生ずるのだと言うことは、「私」にとっては、たしかに感動ものだ。もともと高い価値を持つものが希少であるとき、人は、ますますそれを価値あるものだと「感じる」。そして、価値とは「感じる」ことからしか生じない。論理からは生じない。どれほど高度な論理を積み重ねても、価値についてはいかなる論証も反証も不可能だ。
だから、「私にとっては」、私という存在が希有であることは、私という存在の価値がますます高くなるということだ。
 
 
ところが、他人から見ると、私は、べつに奇跡でもなんでもない。
ただの一個の人間にすぎない。
そして、人間なんて、どこにでもありふれている。希有でもなんでもない。
私が死のうが行きようが、それは、世界の誕生と滅亡と、なんら関係のないことで、私が死のうが行きようが、世界の時間は、淡々と流れていく。
私という存在は、他人にとっては、少しも重大事ではないい。ありふれた存在で、希少性など無いから、価値など感じない。価値が感じられないと言うことは、価値がないと言うことだ。どんな高度な理屈を積み重ねようとも、感じられない価値が存在するということは論証できない。
 
 
 
 
もちろん、この宇宙も、奇跡でもなんでもない。
イワシの卵が途中で食われずに成魚になる確率はとても低いが、ダイソーで買ったイワシの缶詰を食べるたびに、そのあまりの奇跡に感動の涙を流したりはしない。
 
 
われわれの住んでいるような宇宙が生まれる確率は、10のマイナス1230乗かもしれないが、いままでに生まれた宇宙の数は、10の123000000000000乗かもしれない。
だとすると、こんな宇宙は、イワシの缶詰よりもありふれている。
 
 
ところが、「私」のいるこの宇宙は、そのうちのただ一つだけなのだ。私のいる宇宙が、たまたま、こんな美しい銀河で満ちあふれ、地球のような美しい惑星を生み出すようになる確率は、依然として、10のマイナス1230乗であり、それは、奇跡的なことだ。
 
 
要するに、その人間なり宇宙なりにつく冠詞が、aなのかtheなのかということだ。それにaをつけて見れば、それは、ありふれた価値の低いものになり、theをつけて見れば、それは唯一無二の貴重なものとなる。
 
 
この、主観的な視点と客観的な視点を混同すると、「奇跡的に生まれた命のすばらしさが云々」という話になってしまうが、個々の命など、いくらでも再生産が可能なわけで、それらは、奇跡でもなんでもない。
 
 
だた、一方で、「客観的に見ると、「確率が低いこと=有価値」ではないい」と結論づけるのも、早計である。
客観的な視点から見ると、あらゆることは無価値なのだから「客観的な価値」という概念そのものが自己矛盾しているのだ。
そもそも、あらゆる価値は、主観からしか生じないものだ。
子猫どころか、人を殺してはいけない理由すら、客観的に論証することなどできはしない。
 
 
しかし、主観的視点からばかり世界を見ると、コミュケーションは成立せず、人間関係も築けない。「私にとってこれは価値なのよ」という価値判断基準は、単なるおれ様主義で、自閉症的な世界観、独りよがりな価値判断体系だからだ。
「ぼくの存在は、奇跡なんだ!」と、瞳をキラキラさせながら感動しても、他人はしらけるだけだ。
 
 
結局のところ、ものごとの価値判断というのは、二つの尺度によってなされるしかなく、また、なすべきである。
その一つは、主観的な価値であり、もう一つは、共有主観的な価値だ。
 
 
 
 
共有主観的な価値とは、それが価値であることを、複数の人間の主観によって認めるということである。
たとえば、「人間の命には、価値がある。したがって、人を殺してはいけない。」ということを、複数の人間で認め合うことが、共有主観的な価値だ。
二人の人間の結びつきから、社会、あるいは、人類全体の価値観まで、基本はこの原理によって作られる。
 
 
そして、客観的な視点と、共有主観的な視点との混同が、多くの不毛な議論を引き起こす。
 
 
「客観的」という言葉が使われるとき、使う人の都合で、「共有主観的」の意味で使われたり、「純粋客観的」の意味で使われたりする。
そして、最初に純粋客観的な視点で話がはじまったのに、話の途中から、共有主観的な視点の話にすり替えられて、成立しないはずの理屈が成立してしまうというのは、実によくみられるパターンだ。
 
 
さらによく見られる勘違いが、いかなる価値判断も不可能な「純粋客観的視点」から、なにがしかの価値判断を導くロジックだ。
 
 
そもそも、価値というのは、人間の感情と利害の構造から生じるものであり、それ以外のいかなるものからも生じない。従って、それが、主観であれ、共有主観であれ、なにがしかの主観からしか、価値は生じないのである。それが、われわれが価値と呼んでいるもものの正体であり、それは確かに存在するものだが、それは、そこにしか存在しない。
 
 
だから、「私が存在するということは奇跡なのか?」という価値を内包する問題については、客観的な視点からどれほど高度なロジックを積み重ねようが、なにがしかの結論を導き出すのは、不可能なのだ。
 
 
従って、必然的に、「私が存在するということは奇跡なのか?」という問題に対する答えは、主観、もしくは、共有主観の中に存在する。日常、われわれが使う、意味とか価値とかいう言葉の実体は、ここにある。そこ以外の場所にはどこにもないというだけでなく、昔からそこにしっかりと存在する。
 
 
にもかかわらず、そこ以外の場所を探して、価値がない、と思いこんでトンデモな理屈をこねる人間はとても多い。
ようするに、「客観的に見てそれは価値がない」という理屈をこねる人間は、すべからく「価値」とはなにかが見えていないのだ。自分にそれが見えていないために、それを無価値だと考えるという錯誤を犯し、「価値でもないものを、価値だとあがめる大衆」をあざ笑っているつもりになっている。滑稽でもあるが、可哀想でもある。
 
 
そして、意味と価値の唯一のありかである主観から見ればーーー別の言い方をすれば「私にとっては」ーーー「私が存在すると言うことは、奇跡以外のなにものでもない」ということになる。
また、共有主観からみると、「ま、オレもおまえも、この宇宙に住んでいるわけで、この宇宙は、オレとおまえにとっては、唯一無二のすみかなんだから、それも奇跡だよな。」というところに落ち着くのが、まあ、妥当な線だろう。
 
 
ただし、共有主観的な視点から見ると、「あなた」は、奇跡でも特別でもなんでもないわけではあるが。

ドキドキ文芸部をプレイした(ネタバレなし)

「ドキドキ文芸部」っていうアメリカ人が作ったフリーのギャルゲが話題になっていたのでプレイしてみた。
http://ddlc.moe
http://store.steampowered.com/app/698780/agecheck

当然、アメリカの人が作ったゲームだから英語なんだけど、有志の方たちによる日本語パッチもある。
http://steamcommunity.com/sharedfiles/filedetails/?id=129...

で、プレイしてみた感想だけど、日本のギャルゲをすごく研究していて、無料なのにとてもよく出来ているなー、といった感じ。
ぼくはギャルゲ自体は君望AIRひぐらし沙耶の唄とシュタゲくらいしかやったことがないけれど、そのくらいの頃のプレイしていた記憶を思い出して懐かしい気持ちになる。

個人的に、ギャルゲには良いところと悪いところがあると思っている。良いところは革新的で、悪いところは娯楽性がない。
実際、2000年代前半くらいに話題になっていたようなギャルゲたちは、あらゆる物語表現の最先端を行っていたと思う。
ただ、やっぱりエッジが効きすぎてるというか、あまりにも容赦がないというか、とにかく原液そのままって感じで濃すぎるので、基本的に娯楽性を意識して作られていない。

だから、ギャルゲは娯楽ではなく、文学とか芸術とかの領域なんだろうなーと思う。そういうのが好きな人にとってはめちゃくちゃハマっちゃうゲーム。
じゃあ、ぼく自身はというと、ギャルゲをプレイしているとある種のカルト性を感じるので、あんまりハマれないかなあといったところ。あと、レイプファンタジー的な側面もやっぱりあるだろうと感じてしまうので、正直そこも生理的に受け付けない。

でもって、ドキドキ文芸部の話に戻ると、その日本のギャルゲの良いところも悪いところもそのままキチンと引き継いでいて、そしてそれが海外の人にもウケたことが証明された。時代を経て、2000年代的ギャルゲが、日本以外でも原液そのままで海を越えて評価する人たちが一定数いるという状況が現象として面白いなあと思う。もう一つの海外製のフリーエロゲのかたわ少女も、プレイしていないけどあらすじを読む限りではたぶん似たようなものだと思う。(かたわ少女の方はプレイする予定はない)
ひょっとしたら、宗教が日常に入っている海外の人たちのほうが、ギャルゲの超越性みたいなものに共鳴して、心の琴線に触れやすいのかもしれない。
ただ、本音を言うと、娯楽性と芸術性の両立を期待していたりもしてたんだけど。

あ、あと最後に、ネコぱらってエロゲも海外で人気みたいだけど、あらすじをWikipediaで確認する限り本当にただのエロゲって感じだし、今回ぼくが書いた趣旨とはズレるので対象には含んでいません。。(ちなみに未プレイ)

言葉は定義できるのか?

たとえば、パンツ見えそうなほどの超ミニスカートをはいて歩いている女子高校生とか、近所の若奥さんとか、スーパーにいるおばちゃんとか、山手線にゆられてるスーツを着たおじさんとか、その辺のフツーの人が使う言葉が、広義の意味での言葉の定義と一致してるのか?
それがずれている場合、ふつーの人の言葉の定義が間違っていて、広義の言葉の定義が正しいのだから、1億2000万人の日本人は、その定義を使うべきだって言ってもそうはならないわけで。そこが、たとえば、コンピュータサイエンスと違うところだと思う。たとえば、30年ぐらい前に、LISPは、functionの定義を変えた。同じ言葉のまま、言葉の概念を拡張して、multiple dispatchするような、generic functionをfunctionということにした。いままでのfunctionの概念は、狭かったので、より広い概念に書き換えたわけ。この場合は、それは、それで、アリだと思う。
何でかというと、その方が、単に便利だから。でも、それは、工学だから、そういうことができる。あるいは、科学でも同じで、より便利な言葉の定義に、定義をどんどん書き換えていくことができる。
でも、日常語はそれらとは違うのではないか?こっちの方が、整然としていて、便利な言葉の定義だ、と言ったところで、実際に1億2000万人が別の定義で使っているのだとしたら、少なくとも、フツーの人たちにとっては、広義の意味での言葉の定義の方が「間違っている」言葉の定義な訳で。いくらそれらが論理的には間違っている言葉の使い方だとしても、多くの人が使っている言葉の方が正しい日本語になる。
ようするに、後期ウィトゲンシュタイン言語ゲームから連想できるようなイメージだけど、日常語の言葉の定義とは、「現にどのように使われているか」ということによって定義される以外、実質的にはあり得ないんじゃないかと。