桂枝雀の「緊緩の法則」まとめ

以前、自分でも笑いのメカニズムについてという記事を書いたのだけれど、その後に読んだ落語家の桂枝雀さんの、らくごDE枝雀 (ちくま文庫)という対談形式で笑いのメカニズムについて語られている本の内容が素晴らしかったので、その中でも最も重要な、「緊緩の法則」について語られている部分を、ほぼ自分用にまとめることにする。

 

笑いの分類

桂枝雀は、笑いを4つに分類した。

1.知的な笑い『変』
2.情的な笑い『他人のちょっとした困り』
3.生理的な笑い『緊張の緩和』
4.社会的・道徳的な笑い『他人の忌み嫌うこと』ないし『エロがかったこと』

 

一つずつ説明していく。

 

1.知的な笑い『変』

「変」というのはおかしなこと。普通じゃないというのは「緊張」であること。そして、いったん変なことがあってそれから普通の状況に戻ったら、今度は「緩和」されて笑いが起こる。

この場合、必ず最後は普通の状態に戻らないといけない。変なままだと不安が残るので笑うに笑えない。

 

2.情的な笑い『他人のちょっとした困り』
「困り」は「緊張」で、困っていないのが「緩和」。ただし、自分が困っていると笑えないし、いくら他人事でも人間には共感能力があるので、その「困り」がきつすぎるとこれまた笑えないので、『他人のちょっとした』という但し書きが付く。

よく言われる例で、浮浪者が歩いてて転んでも、可哀想だから笑いにはならないが、気取った貴婦人が転ぶと笑いになる。「こいつなら良いだろう」という心理。

 

3.生理的な笑い『緊張の緩和』

人間が「笑う」という状況のすべての根本の要因。1も2もすべては生理的なものの土台の上に成り立っているので結局はこの3に当てはまるのだが、もっとも根底の生理的な部分の説明をすると、例えば赤ちゃんに「いないいないばあ」をする。初めは緊張が勝っているので笑わない。緊張が強すぎて泣く場合もあるだろう。しかし、段々慣れてきたり、信頼の置ける母親が「いないいないばあ」をすると笑う。

これは「ばあ」とした瞬間に緊張が発生するが、両者の間で信頼がある、つまり緩和が土台にある場合には笑いが起こる。赤の他人がいきなり変な顔をしてきても笑えないが、友人が変な顔をしてくると笑えるというのも同じ理屈だ。信頼関係が成り立っているという前提がある友人が変な顔をすると安心して笑えるが、まったく知らない人がいきなり自分に向かって変な顔をしてきても、単に怖いだけである。

 

この「緊張の緩和」は、「緊張」から「緩和」に瞬時に変わった時でないと「笑い」にはならない。そして、「緊張」から「緩和」の落差が大きすぎても、「緊張」しすぎて「緩和」しきれないといった状況になることも考えうるので、そうなると笑えない。

 

4.社会的・道徳的な笑い『他人の忌み嫌うこと』ないし『エロがかったこと』

「他人の忌み嫌うこと」や「エロがかったこと」とは、つまりタブーのことである。タブーとは「緊張」である。その場にいる人数が二人以上になると言ってはいけないことが発生して、それを実際に言った場合、時として笑いになる。

 

言ってはいけないというのが緊張。それを言った後の相手のリアクションによっては緊張が緩和しない場合もあるが、相手が笑っていたり、冗談として通じていれば緩和されて笑いになる。 

1〜3までは人類全てに共通する(もちろん知識などによって個人差はあるが基本的な部分は共通する)が、この4だけは国や文化、考え方が大きく変わってしまうと一切通用しないので、よく国によって笑いの種類が違うと言われるのはこの部分が原因だ。だから。国や世代や性別の違う人を笑わせようと思ったら、1〜3のどれかで笑わせたほうが無難であろう。

 

「緩和の緊張」では笑えないのか?

笑いというのは、「緊張」が「緩和」されて起こる現象のこと。だとしたら、逆の「緩和の緊張」では笑えないのか?結論からいうと、笑えない。SFのショートショートや、ブラックユーモアの作品を見たあとに残るゾーッとした感覚は確かに「緊張」だが、たとえ「緊張」の勝った状態で終わったとしても、「終わった」ということで「緩和」しているのだという理屈。

 

 

サゲ(オチ)の分類

落語にはサゲ(オチ)がある。そのサゲ(オチ)も桂枝雀は4つに分類した。

 

1.ドンデン(合わせ→離れ)
2.謎解き(離れ→合わせ)
3.へん(離れ)
4.合わせ(合わせ)

 

そしてそのサゲには領域区分というものがある。

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「ホンマ領域」という部分が通常の話の筋で、つまり正常なので「緩和」である。そして、この「ホンマ領域」の内外に「ウソ領域」があり、外側が「離れ領域」で、内側が「合わせ領域」の部分になり、どちらも異常なので「緊張」。

 

「離れ領域」というのは、ホンマの世界から離れる、「へん」の領域。常識の枠を出るからウソの領域。しかもとりとめがないのですごく不安定な世界。

 

対して、内側にあるのが「合わせ領域」。これは、「人為的に合わせる」というウソの領域。「合う」という状況も、あまりピッタリ合いすぎると「こしらえた」ということでウソだということが分かる。ただし、「離れ領域」と違い、「合う」ということは型ができるということで安定している。

 

1.ドンデン(合わせ→離れ)

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「ドンデン」とは、「ドンデン返し」のドンデン。

図で見ると分かるように、いったんサゲ前で「合わせ領域」の方へ近づく。つまり、安定に近づくわけで、ここがサゲ前の安心ー「ドン」の部分。そのあとで、「離れ領域」へ「デン」と飛び出したところで「そんなアホな」とサゲになる。

 

2.謎解き(離れ→合わせ)

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「謎解き」は、「ドンデン」の逆で、サゲ前にいったん「離れ領域」ーつまり不安定の側へふくらむ。これが「謎」の部分。そのあと、その謎を解くことによって「合わせ領域」へ入ってきて「なーるほど」ということになる。

 

3.へん(離れ)

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「へん」の場合、「離れ領域」へ出ることでサゲになるのは同じだが、その前の安心がない。「ドン」がなくていきなり「デン」が来るわけで、型としたら四つのうちで最も不安定。

 

4.合わせ(合わせ)

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最後の「合わせ」は、「謎解き」の「謎」の部分のふくらみがなくていきなり「合わせ」てしまう。

 

四つのサゲの相互関係

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Y軸をはさんで、右のほうが「そんなアホな」というサゲ。左側が「なーるほど」と感じるサゲ。また、X軸を境に上下に分けると、上の二つは「緊張」と「緩和」がはっきり区別されているのに対し、下の二つは「緊張と緩和」が混ざってやって来る。

 

桂枝雀の理論によると、全てのネタはこの図の座標上のどこかの一点を占めることになる。そして、この四つのグループも全く孤立しているわけではなく、互いに影響し合ってサゲができている。たとえば、謎を解く手段に「合わせ」を使ったり、謎を解いた結果が「へん」になったり、など。そんな時でも、最終的にどの要素で見ている人が快感を得ているかによって、四つのうちどの型かは、はっきりと分類できる。

文字を書くということ

自分の中の感情や思考って、かなりカオスで、立体的、いや多次元的構造物だから、それをそのまま一次元的な文章にしようとすると、意味不明の文字列になっちゃうのではないのかな。いや、文字列にすることすらできないのではないのか。

文章として意味をなすように、というきついきつい制約条件が、根本的な変質を引き起こすんじゃないだろうか。文章として意味をなすように自分の思考や感情を整形すると、その整形や構造化を行うことで、それは、元の思考や感情とは別物になっちゃう。自分でしか読まないプライベート日記ですら、そうなっちゃう。どんなに正直に書こうとしても、それは、自分の思考や感情から独立した異質の何かになってしまっているのに、それに自分が気づいていないだけなのじゃないのか。

まして、自分以外の人間が読んでも、意味をなす体裁や構造に形作ると、もうそれは、元の自分の思考や感情とは別の何かじゃないのか?自分の思考や感情を素材にはしているけど、それを読み手に伝わるように加工するとき、そば粉100%にはなならなくって、読み手と自分が共有しているであろう、常識とか偏見とか正論とか極論をつなぎとして混ぜ込んで、組み立てているのではないのか?そもそも、オリジナルのそばの実と、ソバ屋で食べるそばは、別物だ。異質の何かだ。蕎麦の実は、食べられるように加工しなきゃならない、というきついきつい制約条件によって、異質の何かに変質せざるを得ない宿命を負っている。

そして、その組み立てや加工において、どんなに素材の良さをシンプルに引き出そうと努力しても、それは、素材とは別の作品、すなわち、自分の感情や思考とは別の何かになってしまっているのではないのか?

その意味で、「ネタをやっているつもりは微塵もなく」とは言うものの、自分の思考や感情以外の何かを、読者に伝えるために作り上げた構造物であるならば、それが、自分の意見だ、というのは、思いこみに過ぎないのではないのか?「わたしは(ネタでなく)本気で極論を書いている。偏見を本気で書いている。」ということが可能だというのは、幻想に過ぎないのではないか?自分の思考や感情以外のものを作り上げているのだから、それは、ネタ以外のなにものでもないのではないのか?

そもそも、面白いことを書こう、ということに自覚的である時点で、それはネタを書いていることと、同じじゃないのか?

そもそも、ネタ、ということの定義は、真実性よりも、おもしろさを優先で作り上げた作品、というものなのじゃないのだろうか?だったら、面白いことを書こう、とどこかで自覚してしまった時点で、それは、ネタを自覚的に書いているということになってしまうのではないのか?

だから、面白さを追求して文章を書く人は、すべからく、自分の文章のネタ化から逃れられないのではないのか?

ネタ化からの逃走は、どこまで可能なのだろうか?

笑いのメカニズムについて

まず最初に、「面白さ」とは何かということについては、作家の鳥山仁さんという方の書いた、純粋娯楽創作理論 第一章・面白さの基礎原理

という創作術の本の中で「予想外で、かつ他人事であること」と定義されているが、笑いとは何かということについては、
(自分にとって)脈絡のないことにリアリティーを感じる他人事
と定義できると思う。


笑いを考えるには、人間が笑う、という行為について考えなければならない。
お笑いのテクニックでよく言われる、「天丼は三回まで」ということも、結局は脈絡を得た(そして飽きた)ということで片がつく。「権威の失墜」も「緊張と緩和」も、今まで根付いていなかった脈絡のことだ。権威があからさまに失墜するのは珍しいし、緊張状態が急に緩和することも珍しいから、その脈絡が日常的にあるものではないから、その場面が作り出されてしばらくはやっぱりおもしろいのだが、そればっかやられたらお腹いっぱいで、お腹いっぱいになったら「権威の失墜だな今のは」とかメタ発言が生まれて、その時にはもう笑っていない。脈絡を得たらもう笑えない。
ボケは「わからないこと」の提示で、ツッコミは「わからないことだ、ということをわからせること」なわけで、わからないことだと知ったら、それは厳密に言えば「わからないこと」ではなく、その脈絡を得て整理した時点で笑う対象ではない。未知であることは、つまり、脳にとって未知であることだ。

我々が普段使っている日常会話には脈絡がある。脈絡とは、ほとんど我々の行動指針で、生きていく上で社会の「常識」とされるものだ。
そして、この脈絡を外すと、けっこう意図的に笑いを取ることができる。「笑いには制約があったほうがいい」みたいなことを松本人志が言うのも、「脈絡をなくす」ということの重要性とそのカラクリについて、彼はかなりよくわかっているからだと思う。常識とされている脈絡自体を知らなければ、脈絡を外すことも出来ない。


そして、その松本人志の『VISUALBUM』というコントビデオの中にある、「マイクロフィルム」は、かなりの脈絡外しを恐らくは意図的に行っている。


松本人志コント 「マイクロフィルム」




ボス率いるチャイニーズマフィアが一人の男にマイクロフィルムの場所を吐かせようとしたら殴るたびにケツから色んな物が出てきてこいつは何でも飲み込むビックリ人間ですわーということに気付いてマイクロフィルムも飲み込んでいるに違いないとどんどん殴ってどんどん出てくる、という話。


何かがケツから出てくることには現実の脈絡はこれっぽっちもないが、映像としては現実の様態をしている。それは、「ケツから物が出てくる現実」が表現されている。
しかし、これではただのコントに過ぎない。この次元にとどまってはそれほどおもしろいコントにはならない。なぜなら、イメージのつながりが単純だから。

マイクロフィルム」では、そこからさらに、マイクロフィルムそっちのけで何が出るか楽しみになってくる、という福引のような状況に発展していく。途中では、「64の本体出せや」と東野が叫びながら殴る(もちろん、「ケツから物がでてくる現実」とはいえ他は現実のルールで動いているので、マイクロフィルムそっちのけで64を求めることをボスから注意される)。

その福引状態の中で、いわゆるハズレが出前一丁に設定される。
「ケツから飛び出す・出前一丁・ハズレ」という脈絡の無い言葉を、コントを見ながらつなげるわけだ。

これらの言葉には、どんな突飛な人生を送っていても、現実に生きている限り相当の距離があるから、誰が見てもおもしろい。

そしてさらに、出前一丁=ハズレの図式を使い、そのハズレが「続く」ことで、現実の脈絡のない出来事そのものに、現実らしさを補強していく。
「ケツから出前一丁が出てくる脈絡の無さが、そのまま脈絡になってくる」ということだ。ケツから物が出てくるという決定的な脈絡の無さを、現実のルールで補強する。現実の脈絡がなくても現実の様態をしている、というリアリティー。こういうコントを見ている時の頭の中は、ひどい混線状態のはずだと思う。
そしてこの混線状態を、いかに複雑に起こせるかというのが、お笑いの地肩の強さに結びつくものだと私は考えている。


一応、念のために少し書いておくと、知らないことなら何でも笑えるのか、知らないことでも笑えないことがあるんじゃないかということについては、他人事であるかそうでないか、というのが重要な要素だと思う。

例えば実際に自分がコントの登場人物の立場になったことを考えて、キャシー塚本という人間と自分はどう関わっているか、ということで、テレビごしなんかじゃなくて、自分が今田のポジションにいたら、ほとんどの人が笑い事には出来ないと思う(もちろん、コントの演者として、という意味ではなく、実際の登場人物として)。

もう一つ、極端な例で、目の前で人が死ぬというのを初めて体験したところで笑えないのは、死について、その原因のケガについて、血について、病気について、知っているからだ。すでに知っていることは他人事には出来ない。知らないことの現実感ではなく、怖いことの現実感が現れると、当たり前の話、怖いのだ。それを創作でやるのがホラー映画だ。だから、血が噴出して倒れたら笑えないが、血が噴出してピンピンしてたら笑えるというわけ。それが、ホラー映画とコントの違いになる。

そう考えると、「面白い人」というのは、「面白くないことを絶対にしない人」と言えるのかもしれない。その安心感というか、信頼感が、周りが笑いやすい空気を作っている気がする。


というわけで、長くなってきたのでそろそろ無理矢理まとめに入ると、おもしろいものは、現実というかリアリティーに凄く関わっているということだ。現実という改めて提出されるとつまらなすぎるものと次元のややずれた、でもつながっている場所で、凄い表現者はウロウロする。現実が踏まえられなければおもしろくないことを知っている。人間は現実に生き、現実の感覚でものを見るのだから。

うつ病と診断されて一年が経ちました。

タイトルの通りなんだけど、うつ病と診断されてちょうど一年が経った。

 

うつ病になってからは、基本的に働くことはせずにのんびり休んでいる。もともと働くのがそんなに好きじゃない自分にとってはこういう生活がけっこう向いているのかもしれないなーと思うんだけど、それでも休んでいる間はアパートの部屋で一人暇を持て余しているだけなので、実際かなり寂しい。読書や勉強したりhuluとかで映画を見たりしているんだけど、それでも毎日の暇を潰すのはけっこう大変。けっきょく、孤独の時間は苦痛なので、最近はスカイプちゃんねるwやチャットパッドで知り合った人と話したりして暇を潰している日々だ。

 

でも、最近医師から働いても良いと言われたので、そろそろ少しづつ働き出そうと思う。働かないと暇すぎる。暇にもほどがある。こういうことを言うと「贅沢な悩みだ」と批判されそうだけど。

 

 

俺が芸人を辞めた理由

※この記事は、別のブログで5年前の2012年4月30日に書いたエントリを再掲したものです。



自身で理由と、そして過去を整理する為に書くentry.

世間では多くの人が希望を胸に抱いて新生活を始め、大卒の同級生も新社会人となりキャリアをスタートさせて早くも一ヶ月が経とうしてるこの時期に、自分がこれから書くのは10年来の目標(あえて夢ではなく)を追う事を諦めた、挫折の備忘録。

辞めた理由を理由をまとめると、

・震災があったから
ネタ番組が無いから
・出たいテレビ番組が殆ど無いから
・テレビ局の言いなりになって、さんざん振り回された挙げ句彼らと心中するのだけは嫌だったから
・プライベートを切り売りしてこのギャラか、と給料の少なさに愕然としたから
・芸人が多すぎてやりたい事が出来る様になるまでのステップが多すぎるから
・その割にダウンタウン以降の芸人で、自分の中でのロールモデルが正直一人も居ないから
・じゃあ自分が自分の理想を体現出来るかというと、それも自信が無かったから
・笑いの進化が既に飽和点に達していると感じたから
・今の時代面白い事を追求するのに芸人という職業はむしろ不向きだと思ったから
・自分の笑いの嗜好がどんどん変わっていきこのまま30年は絶対続かないと思い、未来を描けなくなったから
・売れる、売れないの殆どは運と人付き合いで決まるという事が分かったから
・なのに売れるまで消耗戦を強いられ、若い時の貴重な時間を奪われるから
・しかもツブシが全く効かない仕事だから
・芸人(吉本しか知らないけど)の体育会系の理不尽なルールが合わなかったから
・長年売れてない先輩を生で見てきたから
・辞めるなら出来るだけ早い方がいいから
・他に面白い事なんていくらでもあると開き直れたから
となり、これらを更に端的にまとめ上げると、

やりたい事よりやりたくない事の方が多くなってしまったから



という事に尽きるのだけど、これだけだとあまりに味気ないのでもう少し続きを書く事にする。

辞める事となった一番の決め手は、やはりあの東日本大震災であった。

それまでも国内外の情勢とテレビ界、芸人界の状況、それらと自分の中の好き嫌いを秤にかけながら常に辞め時を探っていたのだが、というかもうほとんど辞めたかったのだけど(辞め時が一番難しい)そんな中であの人災含んだ大天災が起こってしまった事で、完全に心が折れた。
小六の時に松本人志の遺書を読んだその日から十年間、一日たりとも欠かさず考え続けていた笑いとかそんなものは一気に、一瞬にしてどうでも良くなった。急に全てがちっぽけなものに思えてしまったのだ。
理由は、そもそも芸人というのは笑いという文化を売って金という文明を手にしている存在なのだけど、日本の文明そのものが今脅かされている状況で、これ以上の深入りはもう危険だという自分なりの判断と、単純にただただ言いようの無い虚無感に打ち拉がれたからである。

こんな事をやっている、場合じゃない。

今となっては最後の決断をする為の背中を押してくれる機会に恵まれたと前向きに捉えているのだが(不謹慎な表現だとは思うが、僕の語彙力ではこう言う他無いので許して下さい)、この千年に一度の天災がもし無かったならば果たしていつまで続け(られ)ていて、あるいは辞める事が出来ていたのだろうか。
また、現在それでもめげずに頑張っている芸人達にはいつか救われる時が来るのだろうか。こんな時世にあえて夢を追う道を選んだ彼らに、文化の将来を担っていく覚悟を決めてくれている彼らにそのリスクと結果に見合った対価を、僕達観客は、延いては文明は、これから用意していく事が出来るのだろうか?

もっとはっきりと言ってしまうと、今「売れてない」芸人が、いずれ「売れる」を夢見ていられる程、そのパイにはまだ空きが存在するのだろうか? 分からない。分からないが、少なくとも自分の場合だけに限り、あのままもしずっと続けてたとしたら、元々の生活力のなさのせいもあるけど、理想を高く持ち過ぎてその理想と現実とのギャップに耐えられなくなり、いずれは千の風になってしまっていたという事だけは間違いないと断言できる。 まあそうなる前にはさすがに辞めていると思うが、もう少しズルズルと決めかねていた事にはなっていたはずだ。

では何故俺はそこまで芸人に、笑いに固執していたのか。

昔からの憧れ、目標にまだ何も成し遂げて無いまま自分からは背きたくなかったから?
若さ故に視野が狭くなっていて他の選択肢が全然目に入っていなかったから?
それとも中卒には元々他の選択肢がないと最初から諦めてしまっていたから?
ずっと目標を共に追いかけて(くれて)いた作家志望の友達が死んだ事で、後に引き返せなくなったと思い意固地になっていたから?
辞めたら旧友に対してカッコがつかないと思っていたから?
あるいは今までの自分を作り上げたといえるたった一つの小さな小さな心の拠り所だったから?

どれもそうだと頷けるものたちばかりである。が、本当の一番の理由は、もうビックリする位ベッタベタで反吐が出る様な、以前までならば絶対に言わないであろうが、結局のところ笑いが大好きだったから、という事に尽きるのだろうと思う。
故に苦しめられたし色んな物を失った気もするが、これがあったから死なずに何とか済んでるんだと今は思えるようになった。

これからもずっと笑いは好きであり続けるのであろうし、全く無名で、何の実績も挙げられなかったクソ芸人だったが、表現をする側としての数々の経験から通じて得たもの、そして笑いに毎日向き合って出たいくつかの考えみたいなものはある程度突き詰めたものだと自負してるので、これらは一生他の分野にもきっと役立つ血肉となっていくだろうという感触を持っている。

この世界では「売れる為の一番確実な方法は、売れるまで辞めない事だ。」という事をよく、それこそnscの最初の授業でも言われるが、芸人時代とても苦しく死を常に意識してた経験を持つ俺にはそんな無責任な事はとても言えない。
途中でリタイアしても、何回負けても、生きてさえいればトライ出来る。そして一度だけ、たった一度だけでも、勝てばいい。しかもそれは、どんな分野でもいいのだ。
俺は今、予断を許さない状況に立たされていると思うが、大丈夫。ゴールは一つではなく至るところに用意されているのだから。

とか何とかここまで言っておきながら、まだ完全には未練を断ち切れていない優柔不断な自分もまだしっかりいたりするのだが(笑) では最後に、読んだ時は正直ピンと来なかったが、しかし今の自分の気持ちを代弁してくれている、イエローハーツという本に出てくる甲本の台詞を引用して本entryを締めくくることにする。

「夢を諦める事ができたんだよ。」

(うろ覚え)←てへぺろ

茂木健一郎氏と太田光氏の件についてそろそろ一言言っておくか

まず、茂木健一郎氏が指摘した、「日本の『お笑い芸人』のメジャーだとか、大物とか言われている人たちは、国際水準のコメディアンとはかけ離れている」という批判についての太田光氏の反論が、なんだか噛みついても問題のない相手にだけ噛みついてるような感じでいやらしいし、そしてまさにそういうところが茂木健一郎氏に批判されてるんだよって思う。茂木氏は「お笑い芸人のメジャーだとか、大物とか言われている人たちは〜」ときちんとリスクとって大物お笑い芸人たちに喧嘩ふっかけてるのにね。

 

インターネットの時代には、規制がいかに少ないかについて国家同士の競争が行われる。

他国にない規制がある国家は、自国の市場を海外企業に奪われるリスクに晒されることになる。

 

基本的に今の日本のお笑いは規制が多くて下らないことしかできない。そういうことを言うと、必ず「いや、その規制の目をかいくぐってでも下らないことをしているのを見てあえて下らね〜って笑ってるところが日本のお笑いのレベルの高さの証明」とか反論されるんだけど、このハイコンテクストを共有することでガラパゴス化して独自の進化を遂げていったといえば、言わずもがなガラケーだ。

 散々言われ倒されてることだけど、なぜiPhoneAndroidのようなスマーフォンを、iモードという世界で最初に大成功したインターネット機能付き携帯電話を生み出した日本が作ることができなかったのか考えてみよう。技術的には本当なら作れたはずなのだ。作りたくても作らせてもらえなかったというのが正しい理解のあり方だろう。

簡単に言うと、iphoneが画期的なのは、携帯電話を作る上での日本国内だけにあったローカルルールを全部無視して作ったからに他ならない。日本の携帯電話は、ドコモやauのような携帯キャリアが決めた仕様の範囲で作られていた。搭載するべき機能やUIやコンテンツの課金方法など、年々肥大化する仕様に合わせて開発される。

そうでないと日本で携帯電話を発売するのは事実上不可能な仕組みになっていたのだ。それを全部無視して作ったiphoneが画期的なのはむしろ当たり前だろう。

 

ちなみに、日本の携帯電話の仕様を決めていたのは携帯キャリアなのだけど、その携帯キャリアに影響力を行使できる存在が日本にはいくつかあった。 

そのうちの一つを紹介すると、音楽業界だ。auが日本の音楽業界と組んで着うたで大成功を収めたことから、携帯電話のキラーコンテンツとして音楽が認知され、音楽業界の影響力が非常に大きくなった。携帯電話の音楽機能の仕様には日本の音楽業界の意向が大きく反映されている。ひとつは強力なDRM著作権管理技術)により、パソコンの音楽データを着うたのデータとしてコピーするのが禁止されたことである。

したがって、ユーザーが携帯電話で音楽を手に入れるためには、ちゃんと購入してダウンロードする他なかった。ところがiPhoneはそんな日本国内の業界内自主規制なんて知ったこっちゃないから、パソコンとつなげて簡単に音楽をコピーできる機能を搭載した。パソコンだと違法コピーをダウンロードするのも容易だし、CDをレンタルしてコピーしてきてもいい。どちらにしても、ユーザーは従来の携帯電話で購入、ダウンロードするよりもはるかに安い価格で音楽を手に入れることができるのだ。

 

このように国内だけで守らなければならないルールというのは、グローバルな競争においては大きなハンディキャップとなる。携帯電話のインターネットにおいて、国内だけのルールは、一定の期間は確かに機能した。しかし、そのルールを守らなくていい海外からのプレイヤーの乱入によって崩壊したのだ。これからは、もし、なにか新しい国内だけのルールを作ろうとするなら、国内だけでなく、海外にも同じルールを適用しなければならない。

 

自分も大阪の吉本でお笑いやってた時に思ったけど、テレビや事務所のしがらみがあまりにも多すぎる。そんながんじがらめの前時代的な組織の中では、新しくて破壊的なものはまず生まれてこないし、いずれ日本独自の文化というのもなくなってしまうだろう。だから、茂木氏の批判に対してラジオで「うるせえよ、バカ」とか言ってる暇があるなら、お前も海外で通用するコンテンツを一つでも作って日本の文化を守ることに専念しろバカ。

日本における最大のタブー

キリスト教とか、王室とかを西洋の文脈と同じように日本のタブーだと捉えるのは間違っている。


何故なら、日本と西洋では文化の歴史が全然違うので、当然の事として、タブーもかなり違っている。
でも、日本のインテリは、西洋文化をそのまま輸入してタブーを突いたとか勘違いしてしまっているので、結果としてピントのズレた言説に終始してしまっている。

そして、何で日本のインテリは西洋の文脈でしか日本を批判しないのかというと、一般的に日本の歴史に詳しいヤツにまともな人間はいないという事になっているからだ。
国学に詳しかったり、神道や東洋哲学に詳しいヤツは、基本的に、間違ったナショナリズムに吹き上がってしまっている連中であり、つまりは日本文化を変える側ではなく、日本古来の文化を護ろうとしている連中だ、という国民の共通認識になっている。
だから、日本を変えようとするインテリたちは日本の歴史を重視していない。

アニメや漫画や同人誌やゲームなどを見る限り、日本にはタブーなどまったく存在しないようにも思える。
クソコラが海外で絶賛されたのも、
「タブー無視のアナーキーな日本マジ最先端すぎてヤベーーー!!!」
っていう事だったと思う。

しかし、それはタブーが存在していないというよりも、単に社会に対する実効的な機能がないというだけだと思う。
現に、BL作品や二次創作をいくら量産したところで、日本で同性婚を認めるというところまで行かないし、著作権問題もどんどん厳しくなるだけ。
しかも、クソコラに関しては、最終的に人質二人を助けることが出来なかったばかりか、むしろISISの反感を買ってしまって、火に油を注ぐだけという全くの逆効果に終わるという結果になってしまった。
だから、日本のネット・オタク文化が世界におけるタブー上等の最先端文化だとは思わない。


では、日本におけるタブーは一体どこにあるのか。

結論から言うと、それは、オタク文化そのものだと思う。
アニメキャラは、単なる画の連なりで血などまったく通っていないのに、オタクたちはそこに本気で魂を見いだし感情移入し、そのキャラたちが活躍する土地に実際に行って聖地巡礼をする。

無宗教の日本人は、虚像のアニメキャラやアイドルやテレビタレントを神格化し、ある種の独特のコミュニティを作り共同体験を望む。

これらの行動は、一般的に危険だとは全く思われていないが、実効的な機能も何も持たない。もしかしたら体育会系やヤンキー文化も同じなのかもしれない。分からない。

日本の最大のタブーは、天皇創価学会などではなく、社会的な機能が備わっていない虚構に身を委ねてしまう日本人のメンタリティそのものだと思う。